キリストの平和 光永 豊
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12:51)
私には、この言葉が浮かんだ。キリストは、恐れの中を進まれた。自ら十字架へと向かい、命を引き裂く痛みを世に示された。私の内に、恐怖に怯える私の姿があった。私には世界の現実が必然の歴史としか思えない。高校生の頃、先生がひとつの問いを出した。「第三次世界大戦がくると思う人はいますか。」私は何のためらいもなく、手を挙げた。キリストは苦しまれたが、私の過ちを責める言葉は何一つない。
私にとっての「戦後」。私は生まれて今日まで、命を脅かされずに生かされた。どういうわけか出会いに恵まれ、与えられるばかりで生かされた。私の望んだ平和は、私の自由と平穏がすべてであった。やられた分は、いつか必ずやり返す。何者にも縛られず、心の赴くままに世界を動かしたかった。いつしか世界を、自らの手に収めたいと思っていた。私には、死を受け入れられない病がある。永遠に生き続けたい願望がある。私は今、与えられるのが怖い。もし私の命すらも私の所有物とするなら、その先には死と滅びしかない。私は嘘を通せなかった。
キリストの平和は、私の願う平和と異なっている。相反する矛盾がある。キリストの平和は安易に語れない。命を差し出しきれない恐れと矛盾を背負いながら、キリストに赦され、キリストの群れに引き入れられている。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)
主よ、私たちの群れと命を、主の約束のために用いてください。
キリストの平和を、教えてください。
(日本基督教団 橋本教会員)
