共助会について

キリスト教共助会の生い立ちなどについてご紹介いたします。

創立

キリスト教共助会は、1919年(大正8年)森明によって創立されました。
森明 は伝道を始めた最初期から、学生伝道に使命感を持っていました。
共助会は、その成果 の一つの表れです。
それで「帝国大学・高等学校学生キリスト教共助会」というのが、当初の名称でありました。

3年後の1922年に森明が起草した主旨・規約が定められました。

その後間もなく

1925年3月、森明は37歳の若さで逝去しましたが、その最 後の1年余、何度も病状が悪化することを繰り返す中でも、伝道に対する思いはますます熱く、説教・講演・著作に死力を尽くします。

この頃森明が胸中に抱いていた大きな幻の一つは東京市内外学生大連合礼拝であり、死の直前までにかなりの準備が整いましたが存命中は遂に実現に至らず、その死の3ヶ月後1925年6月、青山会館で開催されました。

このとき説教者として立ったのは「うむ、森君の弔い合戦か。よし、やろう」と即座に快諾した内村鑑三と、森明の畏友・高倉徳太郎の二人。

それぞれの説教題は「基督と文明の精神」(高倉徳太郎)、「日本国と基督教」(内村鑑三)でありました。参加者の数は、学生を中心とする男女2600人。会館側の推定では、入場できなかった人も含めると約3000人と伝えられています。

その後、学生大連合礼拝は、1927年の第3回まで開催されました。

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その後の共助会

学生大連合礼拝は、森明の若い後継者たちに、生涯変わることの ない伝道の志を刻みつけ、主にある友情による強い同志的結束をもたらして、その後の共助会運動への強烈な引き金となりました。2000~3000人が集まった大規模な礼拝とはいえ、いわゆる大衆伝道方式のそれとは違います。森明の意図は、一人一人に語りかけて、その心の深いところに「文化の拠って立つ根底としての贖罪の真理を刻む」ことでありました。

それですから、学生大連合礼拝に触発された若者たちは、キリストにより罪贖われた個人格の喜びと自覚を抱いて社会の各所に出て行き、そこに深く静かに根を下ろしました。そこに自分の全生涯をささげて福音による人格的生活の「使命」に生き、まだ歴史の足りない日本の社会に神の時が満ちるのを待ちつつ、自らはその「埋め草」となって生きる戦いを至るところで展開しました。ここにその後の共助会活動の真面目があります。(清水二郎『森 明』より;日本基督教団出版局,1975.3.25)

活動の歴史

共助会の活動の歴史を顧みるならば、大きく次の三つの流れに集約することができ、そこにこの会の特色を垣間見ることができるでしょう。

  1. 多くの教会を建てた(建物のことではない)
  2. 多くのアジアの友人との主にある友情
  3. 文化との折衝の現場で(毎日の生活の中で)信仰をもって生きた

特に(3)に関しては教育と福祉の分野をはじめ、医療、企業、官公庁、文学、芸術など広く多様な分野で積み重ねられてきた働きは大きなものがあります。