戦後80年シリーズ

私と『あの日のこと』    石川嗣郎

1 「あの日」1945年8月15日

 わたしは10歳、桐生市立・北国民学校(小学校ではなく国民学校)5年生の夏休みでした。10日ほど前に前橋市が大空襲を受け、警戒警報で明け方起こされて、20㎞以上も離れた桐生市から、西の空が夕焼けのように赤く染まるのを見ました。次は桐生市だと山を越えた谷間の村・川内村に疎開したばかりでした。小さな農家の(なや)(なや)(農機具を収納していた小屋)を借りましたが、入り口の板戸を閉めると窓がないので真っ暗になります。畳を3畳ほどと布団と簡単な炊事道具を、自宅から荷馬車(馬力と呼んでいた)で運び込んだのです。農家は田んぼから坂道を登った丘の上にあり、手押しの井戸ポンプが壊れていて、坂道を下った田んぼの脇を流れる溝(用水路)の水をバケツで運び、飲み水やお風呂の水として使っていました。その飲み水のせいでしょうか、お腹の具合が少し悪くなっていました。お風呂は、この母屋の風呂に入れてもらうのですが、熱くても水道の蛇口はないので、風呂の湯をうめるにはバケツで離れた溝の水を運ばなければならず、浴びただけで終わるということも多かった。

 8月15日は、お昼に重大なラジオ放送があると伝えられて、母屋にはラジオがなく、ラジオがある機織り工場を持っている大きな農家に、母と6月に生まれた弟と3人で出かけたのです。農家に着いた時、放送はもう終わっていて、大人は皆、泣いていました。

 「日本は戦争に負けた」そう聞きました。

 「え~えっ? 本当に負けたの?」国民学校で5年間「天皇陛下を戴く神国日本は絶対に負けない!」と繰り返し教えられてきました。最後には神風が吹いて必ず勝つと教えられ、それを信じていました。敵艦隊を沈めるための自爆攻撃機を「神風特攻隊」と呼んでいました。『鬼畜・米英』と呼んでいたアメリカ・イギリスに負けた? そんなことはない! 信じられない! ことでした。

 母は弟を連れて、慌てるようにして桐生市の自宅に戻り、私は一人になりました。

 その日、力が抜けて、「戦争に負けた」という悔しい思いで食事も食べられなかったのでした。これからどうなるのか、戦争に負けるとどうなるのか、聞ける人も周囲になく、ただ、不安な思いでいっぱいでした。

 しかし、一方で空襲警報はもうないのだ、これから夜叩き起こされることはなくなり、ゆっくり眠れる。そんな安心感も覚えました。解放されたような気持ちで、村の子供たちと田んぼの間に流れる小川で一日中泳いで遊びました。

 桐生市の自宅に戻ったのは20日ごろで、遊び疲れからか風邪で寝込み、再開した学校の授業を欠席しました。

2 『食糧難のこと~買い出し~』

 食料だけでなく衣類など全て配給制になりました。主食として、敗戦前後、お米の代わりにサツマイモが配給になり、隣り組を通して家族の多かった我が家には、米俵に入った芋が配られました。

 戦時中の学校生活は、現在の教育とは大きく異なり、厳しい規律と軍国主義的な価値観が色濃く反映されていました。先生方の多くが戦地に赴き、残された教員や代用教員が子どもたちを指導していたため、教育現場には常に緊張感が漂っていました。また、教科の内容も国策に沿ったものが中心となり、子どもたちは日々、国のために尽くす「少国民」としての自覚を求められました。

 サイコロ状に切ったさつまいも入りの米ご飯が、また「鯉のおかゆ」と名付けていた米粒が泳いでいるお粥が、さらに、さつまいもだけが、夕飯となったのです。お米の代わりに配給されたコーリャン(高粱)は澱粉(でんぷん)質がないので粥状にもならず、不味(まず)くて食べられなかった思い出があります。

 「買い出し」と言って、食料を手に入れるため、農家に直接行って、母の着物などと交換したことも覚えています。西桐生駅から新前橋間を走る1~2両の電車(上毛電鉄)に乗って確か「ひごし」という無人駅の農家へ母と一緒に出かけたり、6年生の姉と4年生の私二人で、栃木県の壬生(みぶ)という町に買い出しに何回か行かされたこともあります。

 上毛電鉄で姉と二人で買い出しに行き、さつまいも1貫目(4㎏弱)をリュックに入れていて、途中の駅で警官に捕まって没収されました。さつまいもも統制品でした。

 借りた畑(1時間以上歩く郊外の)で栽培したさつまいもを、芋自体はもちろんのこと、(つる)、葉、など食べられそうなものはなんでも食べました。どこかで手に入れた豆粕(まめかす)(大豆の油を絞った残りかす)も食べにくい食材でした。小麦粉の「すいとん」などはまだまだご馳走で、丼に8㎝ほどのとうもろこしが()で汁と一緒に「今日の夕食」と出されたこともありました。食事が終わった後、かえってお腹が空いたと感じるのです。

食糧難は戦後の方がひどく、「ひもじい」という思いが「この頃ないなあ」と感じた記憶が残っていますが、確か中学1年、昭和22年か23年です。

 7人の食べ盛りの子供を食べさせるために、母はどんなにか毎日苦労したことか、切ない思い出です。

3 『国民学校のこと~天皇制教育~』

 昭和16年(1941年)小学校が「少国民」育成を目的とする名前を変えた国民学校に入学。

 「天皇は神さま」と教えられ、校庭の一角にある小さな神社風の建物・奉安殿に「御真影(ごしんえい)」(昭和天皇・皇后の写真)と「教育勅語」、「開戰の詔勅」(太平洋戦争開戦の詔書)の巻物が学校で最も大事なものとして収められていました。毎月8日には12月8日の開戦を記念して、講堂に全校生(当時約900人)が集められ、この奉安殿から御真影を両手で捧げ持ち、また巻物を三方にのせ、(うやうや)しく捧げて式服・白手袋の校長・教頭先生が運んで、(おごそか)かに読み上げるのです。生徒たちは最敬礼して頭を下げて聞きました。

 他の学校で校長が緊張して運ぶ時に巻物を落としたため校長を辞職したという噂を聞きました。

 多くの先生が戦争に招集されたため、3年生、4年生の時は代用教員(旧制中学5年を卒業しただけ)の先生でした。当時、先生の言うことを聞かない生徒や宿題を忘れた子に対して、ピンタやゲンコツは日常的でした。長時間立たされて、粗相してしまったり、倒れた子もありました。叱られて先生から「お前はもう帰れ!」と教室から出されて、本当に帰ってしまった子がありました。翌日「お前はなんで帰ったのか」とまた怒られたのです。

 暖房はなく、休み時間に「おしくらまんじゅう」をして身体を温めたことを思い出します。

 5年生になると「初等科国史」と言って日本史の学びがはじまります。その教科書の冒頭が「神国(かみのくに)」と題して「(かみ)()の時代」の物語です。正直に言って子供でも国の歴史とは信じ難い神話でした。

 しかし戦争に負けても、万世一系の天皇の存在は、他国にはない特質、今流に言えば日本国のアイデンティティだと考えていました。中学1年の時、部活で「天皇は絶対に必要」「必ずしも必要ない」という二手に分かれて、当時流行(はや)った討論会を開いたことがあった。その時、天皇の存在を相対化できただけでなく、自分の頭で考えることの大切さと、クリスチャンであった父のいっていたことの正しさにも気づいたのです。

4 『戦後80年を迎えて~わたしたちの国籍は天にある~』

 「あの日」から80年、「日本の国」の状況は、「お米がない」「子ども食堂が盛況」「地方の人口が減少し、地方の財政が破綻」「バブル期建設したインフラを維持する予算がない」等、様々な問題が浮上。その中で「軍事予算を2%に」あげますと約束するなど、「あの日のこと」など全く忘れて「アメリカの属国のような日本」になってしまった。

 「古典としての旧約聖書」という月本昭男先生の講義録で、「出エジプト物語」の伝承から私たちは「どのような出来事を最も大切な歴史の起点として受け止め、それを次世代に伝えようとしているのか」という問い掛けを旧約聖書は提示していると語られています。

 イスラエルの民が「出エジプト」を民族の原点として想起したように、私達は「あの日のこと」を全ての原点として想起しなければならない。即ち「戦後80年」の日本の現実を考えて、これまでの歩みが正しかったのか問い直さなければならない。また「わたしたちの国籍は天にある」というキリスト者の信仰告白と重なる問いでもあります。 (誌友)