引揚者 岡崎公子
敗戦の天皇の放送を、6歳だった私は聴いていたのかもしれないが、内容も意味も理解できなかった。父が勤務先で大荒れに荒れて、ピストルをぶっ放したそうだ。
西欧の植民地だった中国の上海に生まれて、日本とは違う西欧風の生活様式にも接していた私の一家は、たちまち空中楼閣に住んでいるのと同然になり、10月には難民となった。日本に帰る引き揚げ船に乗る順番が来るまで約4か月、港のそばの倉庫のような建物に何家族も住んでいたのだ。いまのガザの子どもが飛行機から落ちてくる支援食糧のかけらでも手に入ればと、やせ細った身体でやっとやってくる。そこを爆撃される。私はその子たちよりよほど恵まれた難民だった。
敗戦の翌年、1946年3月下旬には日本に帰国しており、旧満州、中国東北部で「開拓」に従事していた日本人難民の悲惨さに比べると大変幸運だったと思う。夫の目の前でソ連兵に強姦された妻は、日本に帰りつく前に自殺した。日本へ逃げ帰る関東軍と同じ列車に乗ることを許されて南下することになった小学5年生のなかにし礼は、なんとか列車に乗せてほしいと窓枠にしがみつく他の日本人の指を一本一本剝がした。今でもその感触を憶えているといった。いたいけな小学生の少年がそんなことをしなければ生き延びられないのだった。ちばてつやは、乳飲み子を含め一家6人で、機銃掃射を避けて夜中に逃げ回った。ノミ、シラミは、たかっていた人が死ぬとただちに生きた人に移動し始める。ノミ、シラミのいなくなった衣服はすぐ剥がされて生きている人が着る、という話をしている。
私は、博多で引き揚げ船から降りたら、噴霧器をもった人たちがいて、首筋から真っ白な粉を噴射された。髪の毛にも撒かれたちまちに白髪になった。いまではDDTは有害物質で、使用は禁止されているが、当時は一番効く殺虫剤といわれていた。ほとんど飢餓状態の6歳の子供である私が、DDTという毒薬を直接身体にふりまかれ、赤痢、疫痢、チフスなど伝染病菌、腐敗菌、ウイルスだらけの最悪な衛生状態を生き延びてきたのだ。私はコロナウィルスの時、ワクチン接種は受けるのをよそうと思った。今の子どもたちよりよほど免疫力はあるはずだから。
引き揚げ船は、死者が出たというので検疫のために上陸が2~3日遅れた。本土を目の前にして船の中で亡くなった人たちは水葬になった。弾にあたって倒れる人や血だらけの遺体などを見なかった私は恵まれていたのだ。後にきいた原爆での死はそれどころでない。4千度という熱で跡形もなくなった人。高熱で一瞬にして目玉や内臓は飛び出し、皮膚ははがれて指先から垂れ下がり、といった死に方をした人々が何万人といたと知った。なぜそんな死に方をしなければならないのだ。
博多から神奈川県大秦野に着く迄の列車も、思えばひどい状態だった。燃料が十分に用意されていない汽車はいつ止まるか、いつ動き出すかわからない。燃料が入った時が動き出す時だ。頭の上の網棚と言い座席の下と言い隙間のあるところは全部人間が詰まっている満員で、トイレはないので石油缶がどこかから回ってくればそこに排出する。中身はだれかが線路わきの畑や空き地にまき散らして、石油缶はまた使う。私と母はさすが汽車の中で石油缶にするわけにいかないから、途中長時間運転が休止になるので、そういうとき列車から降りて、まわってきた缶で用をたす。ほとんど飲食をしていないから、出る物もないのだった。
焼け野原の町をいくつも通った。原爆の落ちた広島に何十分間か停車していた。駅はどの駅も満足な駅舎もプラットフォームもなかった。鉄骨がむき出しの駅もざらだった。飲み物は、駅に水道の栓があるので各自の水筒に補充する。食べ物は駅に停車した時手にいれられれば運が良かったのだ。
私たち一家は焼け残った母の実家に身を寄せた。強烈に憶えているのは食糧難である。配給は、政府には配る物はないので週に一回かよくて二回。ある配給は、腐りかけている小さなイワシが一人一匹で、食べた私は唇が腫れあがってチクチク痛んだ。トウモロコシを砕いて中身の粉ではなく、カスの皮の部分だけ配給になる。苦労して焼いてもバターがあるわけでなし砂糖があるわけではないので、ぼそぼそで食べられない。でもほかに食べ物がないのだから食べるよりほかない。
現在の日本は信じられないほど物が溢れている。お金さえあれば何でも世界中の物が買える。でも私は老人で食べ物はそんなに大量に食べられないし、衣服は一生着きれないほどあって、何を着ようかと「思いわずらう」ほどだ。飛行機に乗ってラーメンを食べに行くという。地面に落ちた食物でも拾って食べた私は言う言葉がない。
この気候異変は、ホモ・サピエンスのみが地球上で繁栄しないように、という地球の自衛なのか。戦争で逝った数えきれない死者たちよ、どうぞどうぞ安かれと祈るのみだ。(誌友)
