戦後80年シリーズ

私の戦争体験   多田惠子

 昭和11年生まれの私が小学校3年生の頃戦争は末期を迎えていた。中島飛行場のあった前橋市はアメリカ軍の爆撃を受けて焦土となった。小学校が国民学校と呼び変えられ、1年生の国語の教科書第1ページが「コイコイシロコイ」から「ススメススメヘイタイススメ」に変わった時だ。師範学校附属小学校の紺のサージ地に白線のあるワンピースの制服は消え、母が着物をほどいて作ってくれたモンペをはき防空頭巾と称する綿入れの被り物を常に身に着けて登校した。正門を入ると左手に二宮金次郎が薪を背負って本を読みながら歩いている銅像があり、その奥にはホーアンデンと呼ばれる白い小さな社があった。生徒たちはそれにおじぎをしてから校舎に向かうのだった。奉安(ホーアン)殿(デン)には天皇皇后の写真・()真影(シンエイ)(まつ)られているとのことだった。校庭を囲む芝生の土手には棘のある枳殻(からたち)が植えてあった。その葉は人の頭と手を思わせる形をしている。子供たちは葉っぱの頭の部分をちぎって「天皇陛下の首取った」という遊びをした。なぜかドキドキしながらやった。家に帰って同じ遊びをしたら母が「そんなこと言ったらお巡りさんに両手を縛られて連れて行かれ暗いローヤにいれられてしまうよ」と言った。

 耳をつんざくようなサイレンが鳴りラジオから「ヨコスカチンジュフゼンカンク(横須賀鎮守府全管区)空襲警報発令」と聞こえると何を置いても防空壕に飛び込んだ。父が大事にしていた苔の庭を掘り返して作った防空壕に一家7人(祖母、父母、子ども4人)がくっつき合って息を潜め、低く飛ぶ飛行機の音が通り過ぎるのを待った。偵察に来たのだと父が言った。今でもじとっと湿ったカビのにおいと緊張感を覚えている。

 前橋空襲との情報で祖母と姉、妹、末の妹をおぶった母の6人が、まさかの時の避難場所と決めていた(かみ)(おき)という一里先の田舎の親類を目指して逃げた。父と父の弟が家に残った。大学生の叔父は学徒出陣で招集されたが外地に行く前の身体検査で肋膜炎と診断され赤十字病院に入院した後家に帰されていた。父は日本通運に勤めていたので軍の物資を運ぶ仕事とされて徴兵されなかった。逃げる途中で日が暮れ真っ暗になり道と田んぼの区別がつかず妹と私は水をはった田んぼに入り込んでしまった。ここで転んだらお終いと必死で足をあげて歩いた。「田から出ろ! 田は危ない」と男の人が怒鳴って皆を田から出した。その直後に焼夷弾がキラキラと舞い降りて田は一瞬にして火の海となった。逃げ遅れて直撃を受けた死傷者が多くいたとあとで聞いた。何も見えない真っ暗闇の中、妹とはぐれてしまった私に「ヨシコちゃんじゃない?」と声をかけてくれた親類のおばさんに地獄で仏の心地で手を摑まえてもらって必死で歩いた。上沖の家の3階から前橋の街が燃えているのを見た。海産物問屋の伯母の高い蔵も火を噴いていた。翌朝父と叔父が自転車で迎えに来て子どもたちを二人ずつ乗せて帰った。途中父が「右を見てはいけない」と言った。言われれば見ずにおれず右を見た。ずらっと並んでうずくまる人たちはそのままの姿で死んでいた。家は焼夷弾の直撃を受けたが桃の木にぶつかってアスパラガス畠のふかふかの土の中にすっぽりはまり込んで止まっていた。(終戦後すぐに装備した市の係員が不発弾処理をした。)「終戦の勅令」が放送された日ラジオは雑音で何を言っているのか分からなかったが戦争が終わったのだ。私は息をついて空を見た。晴れた青空だった。

 復員兵が次々と帰ったが母の弟のヨシオジサン(山岸義男叔父)は帰らなかった。そして戦死の公報と石ころが1つ入った白木の箱が来た。ずっと後になってニューギニアで彼に会ったという人が尋ねて来て、彼から「自分はもう動けないから」と大事に持っていた堅くなった小さな羊羹を貰ったと話してくれた。母は泣いた。ヨシオジサンは優しくて親類中で一番好きな人だった。戦地に行く前にハツコサンとお見合いをして結婚を約束した。ハツコサンは戦死の公報が来た後も祖母を助けていたがやがて来なくなった。焼け野原の前橋の街は、がれきの山をよけて掘っ立て小屋の店が並び蒸かし芋やふすまの入ったパンなどを売っていた。

 私はまた、一人の友人を思い出す。彼女の父親は戦死し、家の前に「英霊の家」と書かれた立札が立てられ前を通る人は礼をして通った。母親は名誉の戦死と言いながら娘を抱きしめて泣いた。彼女は高校を出て就職しようとしたが希望した会社から片親の人はとらないと言われたという。彼女は苦学して大学院まで行き研究職に就いた。

 (誌友・愛農学園高校・キリスト教愛真高校元教師)