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小笠原に足を運び促されたこと(2013年5号) ―小笠原村平和都市宣言― 木村 一雄

 「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ五・九)  六十八年前、ヒロシマ、ナガサキへの原爆、二年前福島第一原発事故の災禍を負った。原爆による痛みは六十八年を経てもなお癒されず、原発事故は予測できない不安を招いている。だが、その痛みを忘れるのも余りにも風化が早い私たち。放射能汚染や放射線被曝の脅威、原発事故に遭ったにも拘らず、無かったかの如く、再稼働が当然のようにマスコミが報道し、なし崩しに原発輸出を始めた。誰もが平和に安らかに生きたいと願っているのに。

 私は今年四月より少しフリーになり、二年前「世界自然遺産」に登録された〝東洋のガラパゴス〟と呼ばれる小笠原諸島に足を運んだ。その島々に佇んで、敗戦後六十八年経っても戦争の傷跡深いことを垣間見た。東京から父島へ千㌔、更に母島へ。硫黄島はなお南二五〇㌔。その島々から成る小笠原村は、一九九五年に「平和都市宣言」をした。

 平和で豊かな自然の中で暮らす我々小笠原村民は、世界中の人々が平和を分かち合えることを願う。この願いは、小笠原の生い立ちが物語っている。我々の先人が築いた文化を、歴史的に分断した強制疎開。今なお一般住民の帰島が許されず、遺骨収集もままならぬ玉砕の地硫黄島。 このような地小笠原に生きる者として、戦後五十年を迎えるにあたり、不戦と恒久平和を誓い、豊かな自然を後世に残すために、小笠原村が平和都市であり、またその使命を全うすることを宣言する。  
一九九五年八月十五日   小笠原村

 この宣言は今も生きている。米国から返還四五年目を迎えた人口約二、四四〇人の小笠原。太平洋戦争末期に本土防衛の最後の砦として重要な戦略拠点となり、本土で真っ先に戦場となった。小笠原諸島には硫黄島を始め父島や母島に、陸上海底を問わず、「戦争の傷跡」として静かに眠っている数多くの艦船や旧日本軍の大砲、トーチカ、塹壕などが戦跡として風化されるに任せ放置されている。これらに再び閃光が放たれることがないようにと祈った。

  六月に富士山が「世界文化遺産」に登録された。だが、忘れてはならないのが、米軍と自衛隊が訓練を繰返す東富士演習場。戦車が広大な大地を荒らし、軍用機が大気を震わす。実弾射撃によって穴があいた山裾の無残な姿。演習場は北富士にもあり。登録を機に、世界遺産に最もそぐわない軍事の場があることを私たちは知らなければならない。