ホームレスであること(2013年4号)久米あつみ
「大学キリスト者の会」(現在活動は休止しているがメール上の情報交換は続行中)の小柳義夫氏からのメールで、ティモシー・シュマルツという彫刻家の作った「ホームレス・イエス」という彫刻にまつわる話を知った。クリスマスにほど近い夜、ベンチに横たわるホームレスの男性を見て、「これはイエス・キリストだ。私はイエスを見たのだ」と感じて作ったというこの像は、トロントやニューヨークのカテドラルから設置を拒否され、文字通り「ホームレス」であったが、やっとこのたびトロント大学付属のイエズス会神学校レジス・カレッジで受け入れられ、同カレッジでは四月十七日にホームレスについてのパネル・ディスカッションを開いたとのことである。UCA Newsのホームページをダウンロードして見ると、冒頭に彫刻の写真が載っている。ぼろ(というよりフード付きの僧衣とも見えるのだが)をまとった男性が長いベンチの上に横たわっている。はだしの両足に釘跡があるのでイエスと知れるのだが、そのほかは何の特徴も表出されていない。たしかにこの彫刻がカテドラルの前に置かれていたのでは、目障りと感じられるだろう。いずれのカテドラルでも主任司祭たちは賛意を表したのに、上層部が首を縦に振らなかったそうな。
折も折、我が家ともう一軒の旧友の家を会場として半世紀以上続けている読書会で、めずらしくホームレスを扱った現代小説を読んだので、この符合は印象深く感じられた。ホームレスの人たちの集う場所を一種のコミュニティととらえたその小説は、全体に楽観的な雰囲気が漂っており、「テレビドラマの域を出ない。だがまぎれもなく現代を描いた小説」という評価を得たのだが、現代の社会を書こうとしたらホームレスは確かに避けて通れない課題であろう。ホームレスになる人々にはそれぞれの事情があり、あだやおろそかにその存在を論評することは出来ないだろう。しかし「人の子には枕するところもない」と言われたイエスはたしかにホームレスの人だった。「これら小さい者の一人に食べさせ、飲ませ、着せてくれたのは私にしてくれたのだ」と弟子たちに言われた時、文字通りイエスは飢えと渇き、寒さを経験しておられたのだろう。
でも私たちの教会はホームレスの人たちを迎えているか。立ち寄れるところか。肝心のイエスが入って来られたとき、私たちはすぐに立ち上がって飲み物、食べ物を用意できるだろうか。