キリストの後を追って 飯島 信
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマの信徒への手紙12:1―2)
お早うございます。2026年を迎えました。基督教共助会創立107年の歩みの時です。
改めて述べるまでもなく、世界は激動の渦の中にいます。
すでに、ロシアによるウクライナ侵攻から始まり、アメリカを後ろ盾としたイスラエルのパレスチナに対するジェノサイド、そしてトランプ大統領の政治的・経済的蛮行とも呼ぶべき数々の言行など、二度の世界大戦の惨禍から人類が学んで築き上げた正義と平和をもたらす世界秩序が、無残に破壊されて行く現実を前に、私たちは今何をしたら良いのか、どの道を進んで行ったら良いのかと途方に暮れるのです。このような時代が訪れて来るなど、誰が予期したでしょうか?
しかし、時代の波がどれほど吹き荒れようとも、私たちの拠って立つところ、なすべき業は明らかです。世の暗闇が深ければ深いほど、私たちの歩むべき道はより鮮やかに示されるのです。
まず拠って立つ所とはどこかです。
それは、キリストの十字架による罪の贖いと、死を打ち破る復活を信じる信仰です。この信仰に堅く立ち、神を愛する第一の戒めと隣り人を愛する第二の戒めに生きる時、神様は私たちを、国家、民族、宗教、ジェンダーなどの違いによって生み出される分断と敵意とを克服させ、キリストの平和の実現に向かっての道を歩む者として下さいます。
では、キリストの平和の道とはどのような道かです。
その一つは、かつて敵意と隔ての中垣を生んだ国々、そこに生きる人々との和解の道です。
1868年の近代日本の成立以降、日本が歩んだ道は、文字通り大東亜共栄圏の盟主を目指す道でした。その道は、アジアに対する日本の侵略戦争によって恐るべき数の人々を犠牲として生み出す道でした。それら犠牲となった国や人々に対し、どのような謝罪と補償がなされたのかを思うのです。同時に、私たちはどれだけその事実を知っているのか、また知ろうとして来たのかを思うのです。
共助会は、韓国との間で、1992年以来、30年を超える交わりを続け、韓国に対する深い罪を自覚して来ました。そして、今回初めて、フィリピンに対する戦争責任と向き合おうとしています。たとえ遅くとも、もし気が付いたら、そこから始めることが大切だと思います。何故なら、そのことによって、平和の道を先立って歩まれているキリストを、より確かに、より鮮やかに私たちの視線の先に捉えることが出来ると思うからです。
思えば、私が初めてアジアとの出会いを経験したのは、フィリピンの友を通してでした。ここに、その時のことを記した私の手記があります。1971年12月30日、今から55年前のことです。
世界バプテスト連盟が主催した第4回アジア青年会議に日本からの代表団の一人として参加した私は、アジア各国から集まった300人余の青年たちと共に、会場となったタイ湾に面するチョンブリのキャンプ場に向かいました。バンコクからバスに揺られること4時間余り、キャンプ場にはさざ波が静かに押し寄せていたと手記に書いています。そして、一週間にわたる会議の5日目の朝でした。一人のフィリピンの青年が立ち上がり、私たちに語りかけました。彼は、今世界で起きている様々な戦い、即ち戦争、貧困、差別、飢餓、そして抑圧などに対する具体的な問題提起なくして、語られる言葉、歌われる讃美歌、つくられる交わりは無意味であると訴えたのです。まさに、私たち日本の代表団が持っていた問題意識と同じでした。それまで、参加したほとんどの国の発表が、聖書の学びと交わりの大切さを内容としていた中にあって、彼の発言は異色でした。
さて、1週間にわたって寝食を共にした会議が終わり、それぞれが帰途に着く準備をしていた時のことです。別れを惜しむ輪が会場の中庭のあちこちに出来、私たちもその輪の中の一つにいました。バスの出発時刻が迫って来る中で、私はどうしてもあの発言をした青年に会って挨拶をしたいと思いました。彼の言葉に心を打たれ、感謝を述べたかったからです。しかし、400人もの人です。フィリピンの代表団がどこにいるのかを探すのは簡単ではありませんでした。事務局で聞けば、彼らの乗るバスがどこかを教えてくれ、彼はきっとその近くにいるだろうと思い、事務局に飛び込みました。そして、ようやく彼を見つけ、私は近寄って挨拶を交わしたのです。「あなたの発言は素晴らしかった。私も本当にそう思う」と。そして別れの挨拶に握手をしようと思い、右手を差し出しました。しかし、私の出した右手は宙に浮いたままでした。あれ、どうしたのだろうと思い、私は再び右手を彼に向かって差し出しました。しかし、彼は私の手を握り返そうとはせずに、次のように言ったのです。「Mr. IIJIMA、この1週間、君と過ごせたことはとても楽しかったし、私も感謝している。もし君が一人の日本人に過ぎないのなら、私は喜んで君と別れの握手をしたい。しかし、君は、日本の代表団として来ている。その日本は、今私たちの国に何をしているのだ。かつては、軍隊によって侵略し、今は経済によって侵略している。そのような国の代表である君と私は握手することは出来ないのだ」と。
衝撃でした。そして知ったのです。一旦日本を離れてアジアの地に立った時、自分は単に個人として立つことは許されず、日本がかつて歩んだこれまでの歴史を背負って立たなければならないことをです。
また、それからはるかに歳月が経った時にも、同じような経験をしました。それは、神学校の2年次、今から22年前、2004年の時のことです。夏期伝道実習でフィリピンのネグロス島にあるシリマン大学を訪れ、ある時に山の教会で現地の人々と共に礼拝を行う時のことでした。私たち日本人が来たことを知った一人の老人が、すでに会堂に座っていたにもかかわらず、私たちが来ると出て行ったのです。私たち日本人と一緒に礼拝は出来ないと。彼の家族が日本軍に殺されていたことを後で知りました。
かつて、安倍晋三氏は、いつまでもアジアの国々に謝罪する現実から次の世代を解放したいとの言葉を残しています。また、高市早苗氏も同じ思いであると思います。私は彼らの気持ちを否定するつもりはありません。ただ、問われているのは、かつて日本が歩んだ歴史的事実にどのように誠実に向き合い続けるかと言うことです。犯した過ちを過ちとして認め、1995年に発表された村山談話にあるように、痛切な反省と心からのお詫びをもって暴虐を働いた国々とそこに生きる人々に向き合うのか否かです。そのような気持ちを失うことが無ければ、自ずと気持ちは態度となって現れ、互いに過去を直視しつつも、過去に引きずられることのない確かな新しい関係を築いて行けると思うのです。現在の韓日修練会によって示されている私たちと韓国の人々との関わりのようにです。そして、そのような関係を、今度はフィリピンと日本との間に築くことが出来れば、平和の道を先立って歩まれるキリストの姿をさらに鮮やかに捉えることが出来ると思うのです。
これからの日々の生活の中で、まず日本に生きるフィリピンの人々のことが心に留まるようになること、そしてこの研修会がその第一歩となることを祈りたいと思います。祈りましょう。
(日本基督教団 小高伝道所・浪江伝道所牧師)
