分科会

分科会Aを受けて フィリピンの旅と戦争責任 木村 葉子

 分科会Aは国民学校2年生で疎開し、厳しい戦争体験をした、加賀美妙子さんが戦争の無謀と警告を伝えんと熱く語り、胸に迫った。(25年、共助8号に寄稿)私は、聞きながら、1998年に参加したアジア学院の学習旅行を思った。当時はベルリンの壁が崩壊し、日本はバブル経済で沸いていた。

 フィリピンでは、1986年独裁者F・マルコス大統領に対し、ラモス国軍改革派と百万人の市民が人民革命を起こし、彼は米に逃亡。「民主化と清新」を掲げる、女性のコリー・アキノ新大統領が誕生し奮闘した。1987年「自由、人権、社会正義」の新憲法発布、次年、農地改革法を制定した。経済は成長したが、数度の国軍クーデターで苦慮した。米軍の基地撤退を要求し、1991年のピナツボ火山の大噴火で経済は停滞、結果的に米軍は徹退した。

 アジア学院の卒業生を訪ねる教職員と行く2週間の旅は大学生も多かった。マニラの巨大なゴミの山の30のスラムの子ども達は、ゴミを拾って生活費を補っていた。国民の大半が1日2食、卒業生のシスター・ピシは給食センターや住民の経済的自立のため豚や水牛を飼うアニマルバンクを作っていた。

 飢餓の島といわれたネグロス島やミンダナオ島にも行った。安価なバナナや砂糖の輸出品のために働く大農園の極低賃金労働者。農民でも、借家、食物、コメ、野菜を買わねばならない。栄養失調で平均寿命50歳だった。私たちが外食をしていると村人に囲まれた。学校を訪ねると日本の軍歌を歌った。現在、マニラは高層ビルの並ぶ都市となったが、今も、日本でバナナが安価なのが気になる。

 また、当時、日本企業がラワン材を伐採したハゲ山を指して、案内人は、「日本はかつて軍靴で、今は経済で奮取する」といった。この旅で何度も自分の無知を知らされた。シスター・ピシは修道院宿泊や案内にとても親切。その明るさに敬服して「なぜ、シスターになったのですか」と問うと、「学生時代、フィリピンは日本軍に占領されていて社会も精神的にも疲弊していて、キリストに頼って生きるしか希望がなかったのです」。帰国後、手紙で、「日本侵略時代のペソ紙幣・軍票を送ります。あなたが過去の記憶を大切にするために」。戦後、軍票は紙くず同然となったものだ。 帰国後、私が勤務高校で窮状を知らせるとボランティア部の生徒は文化祭で発表し小学校へ鉛筆や画材や教材や衣服を送る活動をした。

 アジア侵略と加害者意識の無知を指摘されて、以後、アジアの戦争証言の会などに通った。マレーシアの証言者は、日本人の無知に、非常な驚きと憤りを吐露した。「日本には、歴史教育は無いのか」と問い、南京虐殺の、否、それ以上の大規模な虐殺と破壊がアジアにあったといい、幼児を銃剣で殺した記事を記した教科書が文科省検定を通らなかったが、「私はそのように弟を殺され、村中が殺された時、死体に隠れて助かった」と証言した。同席の方が、フィリピンでもそうだったと話した。話しながら悲しみに涙で声を詰まらせた。「中共」が「千人の戦鬼」を回心させた「中国帰還者連絡会」の証言も衝撃だった。「歴史改ざん」、「自虐史観」の言葉が、教科書問題で吹き荒れて、1999年、国旗国歌法が出来、教科書は薄められてきた。この2月、軍事拡大の政府自民党が衆院選で圧勝した。現在の公私ともにアジア在日外国人への差別排斥の心底に戦前の卑劣な植民地意識が有ると指摘される。日本人が真摯に取り組むべき責任ある課題だ。ところで、出会ったフィリピンの人々の穏やかな笑顔の中にしばしば、苦難の中を生きる信仰を教えられた。(ウェスレアン・ホーリネス教団 ひばりが丘北教会協力牧師)