何が「引き継がれて」ゆくのか 安積 力也
もう30年以上も前になる。1985年、大磯での夏の修養会。「共助会の愛は兄弟姉妹への愛ではあっても、隣人(社会的弱者)への愛ではないのではないか。」主題講演に立った飯沼二郎先生はこう述べて、共助会の持つ自己完結的傾向性を徹底批判された。それはまだ40そこそこの教員であった私の一番弱く一番恐れていた部分に、急所を射貫くように突き刺さった。
火花が散る真剣な議論が交わされた後、最後に立たれた奥田成孝先生(当時の共助会委員長)が、静かにこう言われた。「信仰の根幹は、神の前にひとり立つ個を生きる、ということに尽きる。ただ、その為には交わりの支えが必要である。そこに立つとき、その人なりの生活が生み出されてくる。この一点を欠くならば、いかに活動的であっても、それは、信仰がなくても出来る運動や行動になり終わる。イエスの第一第二の戒め(マタイ22:34―40)はいずれ劣らず大切であるが、やはり第一の戒めは、第一の問題として生きられねばならぬと思う。」
「閉ざされて行く社会の中で ― 隣り人と共に生きる ―」の主題の下、府中の地で持たれた今年の夏期信仰修養会。
参加者のほぼ4分の1が20代から40代の若い世代だった。主題講演者(沢知恵さん)も3人のシンポジストもこの年代の方たち。それぞれ、クリスチャン家庭の系譜に育った三代目から五代目の世代。すでに、中国・韓国・日本の痛苦に充ちた歴史的現実を担って、隔ての中垣を越えゆく使命を生きておられる。なのに、語り口が実に自然で、穏やかで、自分を語る言葉にてらいや力みがない。委ねきった筋金入りのキリスト信仰を当然のように生きる若い世代が、この国にも確かに育っているのだ。我ら古くからの共助会員は、深い驚きと敬意をもって熱心に聴き入った。この光景を見て、
天上の奥田先生も飯沼先生も、どんなに喜んでおられることか。そして、どんなに執り成しの祈りを深くしてくださっていることか。
敗戦後72年。再び戦争への道を狂奔するこの国にあって、共助会は、アジアの隣人たちと共に「平和を命じたもう主」に従う道を、自覚的に選び取り、社会に明示した。我らは最早、30年前の時点にいない。今、一層、奥田先生の言葉に想いを潜めたい。
共助の先達たちが生命を賭して伝えてくださった尊い何かが、引き継がれてゆく。たしかに、たしかに。