巻頭言

8月15日敗戦記念日に寄せて 佐伯勲

日本では、今日、おそらく、この日を「終戦」と言う人が大多数でありましょう。この日を「敗戦記念日」として覚える人は、日本の犯した歴史に罪の意識を持った極々少数者でありましょう。わたしは、「終戦」を使う人は、歴史も知らない、アジア諸国に対して加害意識もない人たち、わたしは違う、「敗戦」という言葉にこだわり続けたいと思って来ました。

今年、頂いた年賀状の中に、「等しく迫りくるSARS-CoV-2 のその戦略に万全を期して備えねばならぬ気配です。何とぞ善戦を!」これは新型コロナウイルスについて言われているものですが、この「善戦」という言葉に心引かれました。終戦であろうが、敗戦であろうが、あの時、今日に至るまで、戦っていたのだろうか、善き戦いをしていたのであろうか。そういったことどもを考えていたら、飯沼二郎先生が思い起こされてきました。飯沼先生は、戦後、べ平連の戦いの先頭に立ち、「日の丸・君が代」の戦いがあり、大なり小なり、いつも戦っておられたように思います。それら一つ一つは善き戦いであったでしょう。しかし、わたしの記憶では、一度も勝利されたことはなかったのではないかと思います。戦い続け、負け続けておられました。それでも「善き戦い」を戦っておられました。わたしたちは、戦前も、戦後も、今日も、本当に戦っていないのではないかと思わしめられました。

わたしは今、北秋田市にある鷹たかのす巣教会(創立1930年)にいます。その教会から戦後まもなく(戦前、戦時託児所開設)、幼児園、保育園が生まれ、現在は「幼保連携型 認定こども園 しゃろーむ」となっていますが、そこのキリスト教主事という名で職員の一人としても働いています。朝早く7時から来る子もいますし、帰り、遅い子は7時前、朝夕一時間ずつ玄関で、「おはよう:しゃろーむ」、「さようなら:グッバイ」と声をかけています。乳児から5歳児まで117名、みんなに「しゃろーむ」と言っているわけではありませんが、一日に何回「しゃろーむ」と叫んでいることでしょう。これも善き戦いの一つと思っているのですが……。

「しゃろーむ」は、普通には、「旧約聖書に書かれたヘブライ語で、人と人が出会った時交わす挨拶の言葉。平和、平安と訳される。」と言われますが、しかし、本来は、平安、平静とかと全く反対の、もっと躍動的な、力と生命に満ち溢れている状態を言うとか。「こども園しゃろーむ」の子どもたちみたいです。しかし、そのために、地域においても、家庭においても、「こども園しゃろーむ」においても、住民、親御さん、職員の皆さん、どれだけの厳しい戦いがあることでしょう。想像に難くありません。今日も、見せかけの平和、偽りの平和、力による平和がまかり通っているからです。旧約の預言者は、それらに対して、戦争と滅亡の預言も辞さず戦ったことを覚えつつ、「善き戦い」をしましょう。            

(日本基督教団 鷹巣教会牧師)