真の恵みに至る道筋 橋本 洽二
1944年(昭和19年)の3月、小学校の第四学年を修了したところで、私の学校生活は終わった。大都市では学童の集団疎開が始まり、障害児の私はついて行けないので休学扱いとなったのである。偶々父も健康が優れず会社から退くことになり、期せずして父子が毎日家で顔をつき合わせて過ごすことになった。病身のため重い鍬やシャベルを振るうことのできない父は、歩けない息子を相手に小さな移植ごてを使って、コツコツと庭の芝生をはがし土を耕し、大根やキャベツなどの家庭菜園を作った。立志伝中の人だった父の口癖は「精神一到何事か成らざらん」であった。
その年の7月頃、サイパン島守備隊が玉砕したとの臨時ニュースが入った時、「いよいよ(東京への)空襲が始まるぞ」と父は言った。米国が航続距離の長い高性能爆撃機を開発したことを、逸早く新聞が伝えていたからである。そして予想どおり、サイパンを基地としたB29による本土爆撃がこの年の11月から始まり、頻々とサイレンが鳴り響くようになった。
翌1945年の5月、東京渋谷方面も執拗な焼夷弾攻勢を受け、富ヶ谷のわが家も焼失した。すでに病の篤くなっていた父をはじめとする親子四人が、近所の焼け残ったお宅で間借り生活を強いられ、その3カ月目に「8月15日」を迎えた。すでに自力で起き上がることも出来なくなっていた父は、ラジオを通して初めて耳にした天皇の声に滂沱(ぼうだ)と涙を流したが、母が「これからはまた、あなたのような人が活躍できる時代になりますね」と言うと、父はひとこと「もう遅いよ」と言うのみであった。
2週間後、結核と栄養失調で文字通り骨と皮ばかりにやせ衰えた父は、やっと芝の病院に入院することができたが、他家の厄介になる身から解放されて気が緩んだものか、その晩のうちに息を引き取った。
このあと、当時12歳の私が27歳になるまで、焼け跡での孤立した地下室生活が続くことになるのだが、今から考えれば、この経験の中でこそ、やがて島崎光正さんという人に出会う、そのきっかけが整えられ、イエス・キリストに導かれる幸いに与ることができたのである。これは人の思いでは全く知ることの出来ない恵みへの道筋であった。
いま80代の半ばまで生かされて、日毎に困難の増していることも感じるが、所属教会を通しまた共助会を通して、自分の与えられて来た主の恵みの証し人であり続けたいと願っている。