友という友はなきにあらねど―2022年信仰修養会偶感 川田殖
ことしの修養会は、3年つづきのコロナ禍で、昨年同様、小諸市古城のグランド・キャッスル・ホテルで行われたが、例年よりメンバーは少なく、31名であった。しかし早くから参加を希望しながら、この事情のため、祈りつつ当地でそれを覚えてくださった小笠原浩平さんのような方がたが少なくなかった。開会礼拝から閉会礼拝に至るまで、見えざれどもいます神とともに、見えざれどもいます友垣に支えられての会合であった。
『森 明著作集』新版の校訂者でもある安積力也兄の主題講演は、著作集巻頭の写真に残る、植村正久に並んでの、森 明のまなざしが、片目は厳しく外に向けられ、片目は深く内面に向けられているという指摘のように、洞察に満ちたもので、同様のまなざしがこんにちどこに向けられているかを、ご自分の経験に照らしつつ、私たちに反省と奮起を迫る感銘深い講演で、のちの懇談への発題ともなった。
奥田成孝先生を語る片柳榮一兄の講演も周到を極めたもので、若き日に先生に育てられた私は心から肯くとともに、その教会観や共助会観で、気付かず見落としていた点を教えられてまことに有益であった。
これらに対する朴 大信・井川善也両兄の応答もまた見ごとなもので、前者の広い視野、後者の深い理解にも教えられるとともに頼もしさを感じた。まさに「主にある友情」の確実な継承と展開に触れて大きな喜びを覚えた。早天祈祷・共同協議にもこの感は同じである。
しかもこれらが、先輩崇拝や仲間ぼめとは全く逆に、主キリストのみを仰ぐ会に終始したことは、まさに「キリストのほか自由独立」の精神が生きていたからにほかならない。その証左の一つが終り近く紹介された森 明の愛唱といわれる、旧讃美歌351番が共に高唱されたことであった。♪「友という友は なきにあらねど、比たぐいもあらぬは主なるイェス君、…」この修養会が与えたインパクトのひとつは、ひと月のちに開かれた佐久学舎聖書研究会にも参加した最年少の藤坂一麦君(京大3年)が、早天祈祷会で、ヨハネ福音書15章とともに、この讃美歌を選ばれたことにも見られよう。神のご計画の壮大さ、人の応答の見ごとさとを心新たに刻ませる修養会であった。
天上の先輩がたよ、ご照覧あれ。(2022年8月)
(哲学者 日本基督教団 岩村田教会員)