説教

イエスはまことのぶどうの木 ヨハネによる福音書15章1~17節 木村 葉子

20181005-002

昨年のクリスマスの時から、浜松の教会が引っ越した隣に住む方が、趣味のステンドグラスを教会に飾って下さいました。夕日の光がステンドガラスの絵のぶどうの実を通して輝く色があまりに美しいので二人で見とれました。彼女は「キリストは何でぶどうなの?」と問いました。教会の旗の聖句と絵を見たからでした。彼女がキリストにつながりますように。

「わたしはまことのぶどうの木」の聖句は、一三章から一七章のイエスが十字架の苦難に向かう直前の晩餐で語られた決別説教の中にあります。「さて、イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(一三1)。イエスは、親しく教え愛してきた弟子たちと別れ、地上に残る彼らが、師の受難と死と復活の予告を聞いて動揺し、悲しみ、その意味も理解しがたく、不安にあることを深く心に留めておられました。晩餐の前に、イエスが自ら弟子たちの足を洗われたこともイエスの限りない愛を表わし、また人々に仕えることを教えるものでした。「わたしのしていることは、今は分からないが、後で分か

るようになる。ことが起こる前に、今、言っておく。ことが起こった時、『わたしはある』ということを信じるようになるためである」(一三19)。イエスの苦難の死も復活も、聖書に預言されていた神の言葉の成就であると、弟子たちがその後に知り、「神である方」を信じるために。イエスは、師の死に際し、弟子たちの耐え難い恐れと悲しみ落胆を過ぎ越して、すでに、その先にある復活一点勝利のキリストに彼らが出会う未来を見ていました。イエスは、弟子たちがその時、揺るぎない信仰と希望をもって立ち上がるよう励まし指さし、やがて成る彼らのエクレシア(教会)のために語りました。イエスに代わり、後、真理の霊である聖霊が来ると告げ、聖霊によって、キリストの救いの福音のすべてを理解することができるようになることを。

「わたしはまことのぶどうの木であり、あなたたちはその枝です」と。

主イエスは、自分がどんな方であるか、自分を譬えて教えました。まことのぶどうの木とは、唯一絶対、他にない神の命の木を表します。イエスこそキリスト、神の与えた命の源です。わたしは父なる神に固く張った根と丈夫な幹を持つ良い実をつけるまことのぶどうの木だ。どんなに激しく世の暴虐が吹き荒れても絶対に揺ぎ倒れることはない、あなたたちはその枝となって私にしっかりつながりなさい。わたしの命は、惜しみなく枝に流れ込み、枝は豊かな実をつけることができる。豊かな真理と生命があなたたちの魂を養い、信仰が育ちやがて良い実が豊かに実って神の国の喜びがあふれる。どんな時にも、わたしを信じ戒めに従うならば、あなたたちの枝に豊かな実が結ぶと。良く熟したぶどうの実はみずみずしく美味しく栄養豊かです。昔も今も滋養に富む有用な食品です。

良い実とは、救いであり、教会です。

「わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」(2節)。良い実のために、農家は水や肥料を欠かさず、病害虫に傷んだ葉や枝を刈り取り(剪定)ます。ぶどうは、冬の間に刈り込みをし、また実が付いてから実を選んで剪定(せんてい)します。父なる神はこの農夫のようです。「手入れをする」は口語訳では「刈り込む」これは原語で「清くする」をも意味します。弟子たちを手入れし、何よりも神に従う者として清めます。この世の価値観、処世術、歪んだ考え、高慢や不信仰の無駄な部分を取り除きます。命の糧が充分ゆきわたり良質な実をつけるために「清め」は欠かせません。「召してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なるものになりなさい」(Ⅰペテロ一15)。コチコチの人を連想しがちですが、実際は

柔和で温かく偏見のない自由で謙遜な信頼できる人にされていきます。「清い」とは、この世のものやこの世の使用から区別され、神のものとなること。自分の欲望のままに生きるのではなく、心の王座に主を迎え、神の戒めに従い主に聞き、祈りつつ神の心を知って生きることです。

 「清められる」刈り込みは、時に、非常な痛みを伴います。

信仰者が、わたしはすでに世の人より清いと高ぶったり、神と世の二股をかけたり、何も良いことがないと諦め座り込んでいることがあります。このまま、自分は自分流だと、神の言葉、訓練を無視して神の愛と御み 心こころを無にして過ごしていると、枝は痩せ細り病害虫にやられて枯れ、枯れ木は火に投げ込まれてしまいます。神は刈り込み、枝と良い実を十分に成長させます。

人は、しばしば、非常な危険にあい、愛する者を失い、仕事を失い、挫折し、病気の痛み苦しみに遭って自分のありのままの姿に気づくものです。才能も地位もお金も人も助けにならないと。神に叫び、真剣に祈る時、初めて「まことの神」を求めます。その時、神に耳を傾け、その光に撃たれ真理に従うなら、自分勝手なありのままの弱く汚れた姿を見て、他人や神様のせいにしていた自分の問題が見えてきます。しかし、これはとても辛く受け入れ難く悲しく怒りさえ感じます。「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」(詩編三四19)。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリ七10)。

また「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しく思われますが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(へブ一二11)。示された罪を離れ、御心の働きに従う者は幸いです。イエスは繋がろうと手を伸ばし、わたしも主に固く繋がる。「あなたがたも、わたしに繋がっていなければ、実を結ぶことができない」(14節)。それは、枝自身には命の源はなく、自分の力では実を結べないから。主イエスを離れては、私たちは何もできず、ただ枯れて火で焼かれてしまうから。「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(7節)。イエスの言葉は祈りを清め本当に大切なものを願うようさせます。「わたしの愛に留まりなさい」(9節)。イエスが父の掟を守ってその愛に留まるように、私たちもイエスの掟を守るならば、イエスの愛に留まる。この掟とは、「わたしが、あなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(12節)です。この言葉は、ヨハネ一三章、一五章とヨハネの手紙三章で計五回出てくる、イエスの愛する弟子たち同士が互いに愛し合いなさい、という新しい命令です。それは、イエスによる福音の喜びが、やがて成る弟子たちの集会(エクレシア、教会)に満ち溢れるためです。イエスの愛に留まり、清められるとは、イエスのように信仰と愛の人に成ることです。この新しい掟は、喜び、愛、義という平和に満ちた実を結ばせ、交わりを成長させます。豊かな良き実とは、聖霊の結ぶ実、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラ五章)。自分を潤し、家庭や、教会、友人、社会を潤します。イエスは、「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3節)と、弟子たちが主に従い共に歩んだ生活を通して「既に清い」と認めている。さらに聖霊によって御心を知り力を受け、キリストと共に生きる者として成長し神の国の同労者とされるのです。

「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって父なる神は栄光をお受けになる」(8節)。栄光とは、光輝、栄誉、神の臨在と力、また神の聖なる輝き、聖さを表します。弟子たちによき実が実ることが、神の誇り、栄光となるのは何故でしょうか。イエスの十字架の死と復活によって、罪人が救われる道が拓かれ、弟子たちが救われ、神と隣人を愛する新しい人に変えられたからです。弟子たちの救いが、神の救いの御業の成就として神の栄光になるのです。「キリストに結ばれた人は誰も、新しく創造されたものなのです」(Ⅱコリ五17)。このように、イエスの弟子への愛も、その救いも、父なる神のまことと愛に発し根拠づけられています。

イエスは、人々にこの父なる神の愛の深さを繰り返し教えておられました。「ぶどう園と悪い農夫たち」のたとえ話はその一つです。ぶどう園の主人は、農夫たちにぶどう園を任せて長い旅に出ます。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちの元へ送ります。しかし、農夫たちはこのような三人もの僕たちを袋だたきにし空手で追い返しました。「そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』(ルカ二〇13)。農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば相続財産は我々のものになる。』 そして、息子をぶど園の外にほうり出して、殺してしまった。……」

このたとえ話では、ぶどう園の主人は神、ぶどう園がイスラエルの国民、悪い農夫がイスラエルの王や祭司長たち、僕たちは迫害された預言者を表しています。旧約聖書にある、神の戒めを無視したイスラエルの歴史を土台に語られています。最後に、記者ルカの言葉は「その時、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐た」(19節)。

律法学者や祭司長たちは既に、「神殿は祈りの家であるべきなのに、あなたたちは強盗の巣にしてしまった」と批判するイエスを殺そうと謀る程憤怒していました。彼らは、さらに主人の息子を殺して、ぶどう園を乗っ取ろうとした悪い農夫に例えられ怒りは沸騰した。しかし、境内で教えているイエスの話に、民衆がみな夢中になって聞き入っていたので手を出せなかった。彼らは、自らを神の権威ある者のように語るイエスを神への冒瀆だとして益々、憤怒と死罪の正当化を募らせて行ったのです。

旧約聖書では、ぶどうの木や園はイスラエルの民を表しました。イスラエルは、神の愛する民、エジブトの奴隷の地から救い出され、豊かな約束の地に植えられた「ぶどうの木」でした。しかし預言者は伝える、「わたし(神)はあなた(イスラエル)を、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのにどうして、わたしに背いて悪い野ぶどうに変わり果てたのか」(エレ二21)。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。わたし(神)がぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか」(イザ五4)。神の戒めに生きず、悪に従うイスラエルに対して神の怒りと嘆きは非常なものでした。

この問い、「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるというのか。」は、非行に走るわが子を憂え煩悶する親のようです。イスラエルへの愛ゆえに深く苦悩する神の姿です。イエスのたとえでも、「どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と、悪い農夫たちの悔い改めを並外れて待ち望む、慈愛に富む神の姿が描かれています。それは放蕩息子の帰るのを毎日門に立って、待ち望んでいる父の姿と重なります。

たとえ話には、律法に基づく悪人への当然の厳しい裁きが行われないだろうかと語られていますが(16節)、イエスは実際にどうされたでしょうか。イエスは、罪人を何とかして救いたいと悪人の危険の中へ最愛の息子を送るような、神の御心を深く知る者でした。彼は神の御心に従いました。最後の審判の前に、罪人の救いを計画された、歴史を支配される神。イエスは、神の救いの計画に従い、自ら罪人に代わり十字架の死を引き受けたのです。それは、耐え難い肉体の非常な苦痛ばかりではありません。「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。父と子の魂の交流も引き裂く霊の苦しみがありました。全人類の罪を代わりに負われたイエスの比類ない苦しみです。作曲家ヘンデルは「メサイア」を作曲していた時、主の受難に涙で楽譜をぬらしました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ一五13)。主イエスは、弟子たちを友と呼び、友を愛する究極の模範を示されたのです。「父から聞いたことをすべて知らせた」友として。イエスは、十字架に死に、救いの道、命に至る道に成ってくださった。父なる神は、このイエスに復活の栄光を与えました。この神の救いの計画の成就は父なる神の栄光となりました。父の栄光と、子の栄光が分かちがたく表われています。「しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(ロマ五5)。私たち一人一人のためのこの救いの道、この限りない神の愛、キリストの福音を宝として謙遜に受けとりたいものです。

ところで、私たち信仰者の歩みは一人一人異なり、その賜物も課題も違います。

ある私の友人は、以前、洗礼を受けて「わたしは、父なる神様と祈ることが辛くて、どうしてもそう祈ることができない。私の父は恐い人で家族もみな恐れていた。聖書の父の神の愛のイメージは持てない」と悩みを打ち明けました。既に亡くなったが、子どもの時から自分勝手で横暴な父を好きになれなかったと。

人は、家族や、友人、恋人、教師、職場という身近な人である程、勝手なふるまいに深く傷つきます。赦せない思いが心を縛って苦しみます。しかし、十字架の痛みを知る神は、私を愛しその最も奥深い痛みを知り、そこに触れ、癒し回復し平安へと導くことのできるお方です。「私の名によって、父に願うものは何でも与えられる」。主イエスは、小さく弱く見捨てられた人のもとに行って愛を示されました。私のこの友人は、その後、信仰によって歩み、以前は息子と仲が良くなかったが、最近誕生日のお祝いをくれたと喜んでいました。福音は人の間を

和らげていく力があります。私たちも愛し合い、信仰を励ましあって生きたいものです。

もう一つ「天国は次のようにたとえられる」と始まる「ぶどう園の労働者」(マタ二〇1)の話は、神が望まれている「ぶどう園」についてでしょうか。ぶどう園の主人は、早朝から夕方まで、労働者を捜し雇い、そして日暮れて誰にも同じ一日の賃金一デナリを払った。早朝から丸一日暑さの中を辛抱して働いた人は当然、不平を訴えた。主人は答えて、「友よ、約束したとおり、あなたに不当なことはしていない。……わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」 この主人の思いは何でしょうか。ここは最後にある「後の者が先になる」の言葉から、救いに与るものは、後先なく同じと教会で説かれます。この主人は、夕方五時になっても労働者を捜しに行き、「誰も雇ってくれない」という彼らを雇うのです。きっと毎日の食事に事欠く経験のない者には想像外ですが、貧しい日雇い労働者は、仕事がなければ、彼も彼の帰りをお腹を空かせて待っている家族も飢えてしまいます。主人はどの人も十分に養いたいのだとの思いがあったのではないでしょうか。イエスの教えられた「主の祈り」の「日ごとの糧を与えたまえ」の祈りの切実さを感じさせられます。ナザレの庶民として生き長子として家族の生活の辛苦も荷われた経験をもつイエスの姿を彷彿とさせます。人々への温かい配慮、互いの命と生活を保障しあい、働きの恵みと喜びを分け合う天の国の「ぶどう園」。神を愛し互いに愛し合う、爽やかな愛の風の吹く園。それは、義務感によって自分の力で為すことはできません。それは聖霊による良い実だからです。わたしたちが、主イエスにしっかりつながり、互いに愛し赦し支え合う時、天の国はすでに来ているのです。(二〇一八年七月 某聖会説教に加筆)