葬りのための香油注ぎ 片柳榮一

(マルコによる福音書 第14章3-9節)

今年はイースターが4月4日の日曜日で、今週から受難節に入るということですので、べタニアでの香油注ぎの記事をとりあげて、受難節を覚えて語りたいと思います。

この記事は、珍しくマタイ、マルコ、ヨハネにあって、ルカには同じ形ではありません。まったく欠いているというのではなく、イエスの初期の活動としてルカ7章36-40節に、新共同訳では「罪深い女を赦す」との見出しで、ルカの独特の解釈が施されて出てきます。このイメージがともすると私たちに強い印象を与えていますので、一応これとは切り離して読む必要があるように思われます。

マルコの記事ではイエスはエルサレムのすぐ近くのベタニアという村の知り合いの家で会食をしています。マルコで、人々の会食の記事は、2章13節以下での徴税人レビの家での罪人、徴税人を含めた会食以来のものだそうです。大勢の雑多な人々の集まりであることがこうした古代のユダヤ社会では通常のことであったように思われます。苦しい日常生活を紛らわす、いわば小さな祭りなのかもしれません。私も子供の頃、春、夏、秋、それぞれ村を挙げての祭りがあり、近所の人々が、皆楽しそうに集っていたことが思い出されます。この14章でも大勢の人々が集まっているようですが、弟子については言及されていません。むしろイエスに敵対するような人々がともに座っていたことが推測されます。そこに突然一人の女性が入ってきて、イエスの下に膝まづき、高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎます。当時の男中心の会食の席に女性が食事の世話でもなく、入り込むのは異様な光景であったようです。しかも非常に高価な香油を、食事の最中の男性に注ぐというのも日常的な光景ではなかったようです。マルコ伝記者はこの女性について何も触れていません。ヨハネはマルタがその姉妹であるマリアの行為としています。ルカ7章では、ルカは「罪深い女」(37節)と明確にルカの意図、つまり罪の赦しとそれへの感謝としての香油注ぎ、という意図を感じさせる表現で述べています。しかしマルコはその様な説明はせず、淡々とこの女性の思い切った行動を描き出しています。その静けさは、まるで能の舞台をみるようで、その簡潔な筆致が目につきます。

 「香油をイエスの頭に注ぎかけた」(3節)。壺を割って、頭に注ぐというと、ずぶ濡れになるような気がしますが、壺といっても香水入れのように小さなものだったかもしれません。この社会では、このような油注ぎは、深い「尊敬」を表わすものであったそうです。この女性がどのような理由で、このような「尊敬」を表わす行為をしたのかも、記者は記していません。ルカのように、懺悔と感謝の気持ちを表すと云わば、単純に推測できるようには記されていません。この尊敬の背後にこの女性のどのような生の歩みがあったかは、敢えて省いているのかもしれません。信仰の行為としての尊敬と献身の在り方は様々であり、それを罪の赦しと感謝とくくるにはあまりに多様で豊かな生の歩みがあるはずです。

女性のこの大胆な行為に対して、或る人々が憤慨しました。1デナリオンは一日の賃金にあたるということですから、1デナリオンは1万円ほどでしょうか、すると、この香油は3百万円ということになります。これを一人の男の頭に塗るために用いたことに対する批判は真っ当なものといえます。正当な分別に基づくものといえます。しかもここでは贅沢な消費と貧しい人々の困窮が大きな問題、而も宗教的な問題でもあった古代ユダヤ社会における出来事です。あらたな貧富の格差が明瞭になり、分配の公平さが問われる現代においてもホットな問題であり、この議論はいつも起こって当然のことです。

「彼女を厳しくとがめた」。咎めたとの言葉は、ヨハネ11:33では憤りを覚えたと訳されています。ひそひそ語り合い、そして叱りつけたのでしょう。今でも日本の我々男性優位社会の中で、上司が部下の女性に対して、外部のお客がいないところでかさに着てしかりつける風景とよく似ていると言ったら、比較が少し違うでしょうか。

イエスにとっても貧しい人々への施しは重要なことであったと思います。しかしイエスは言われます。「するままにさせておきなさい。なぜこの人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかしわたしはいつも一緒にいるわけではない」(6-7節)。貧しい人々はいつもいるが、私はいつも共にいるわけではないとは怪訝な言葉とも言えます。確かに貧しい人々もそれぞれひとりひとりをみれば、限られた時に生きており、一人寂しく去ってゆく存在です。ですから決していつも一緒にいるわけではありません。しかしここでイエスが問題にしているのは、そのような一人一人の個人としての人、貧しい個人一人一人ではなく、貧しい人一般なのでしょう。この香油が3百デナリオン以上に売れるという言い方、その見方からして、ここでは数で括られる十羽ひとからげの抽象的な「貧しい人々一般」が問題なのでしょう。或る高価な香油に用いられた貨幣価値(この場合は3百デナリオン)が問題にされています。これが等分に分けられれば、どれほどの貧しい人々が助かるか、という形で、この女性のいわば贅沢な浪費が非難されています。これはこのレベルでは真っ当な分別ある申し立てといえましょう。これを突き詰めてゆくと、ベンサムの「最大多数の最大幸福」こそ善悪を判断する時の正しい基準だという主張に行き着くのでしょう。

確かにこの記事を読み返してみて「わたしはいつも共にあるわけではない」とのイエスの言葉がこの記事の核心を表わす言葉だと思わされます。いつも存在する「貧しい人々」一般と、目の前に立つ一人の個人、そしてこの場合はイエス個人です。この女性にとってイエスという存在がこの世の救い主であり、神が人となり給うたのだというような信仰の故に、この香油注ぎをしたのではないでしょう。そうではなく、彼女が具体的に一人のイエス個人に出会い、私達には説明されていない或る理由から、この人に高価な香油を注ぎたいと考えたのでしょう。この理由が述べられていないこともまた示唆的かもしれません。ルカ伝での、この女性は「罪深い女」で、イエスから赦しを受けた故に、その感謝として高価な香油をイエスに注いだのだという理由づけは分かり易いです。しかし我々が生きている場面での人と人との出会い、そこにおける人格的応答の一々を言葉という一般的な括りによってラベルをはることは、簡単にできることではなく、あるいはすべきでないのかもしれません。私たちは奥田先生が森明との出会いによって、生涯を決定づけるような方向付けを与えられたことを知っていますが、奥田先生をそのように動かしたものを簡単に一つの言葉で言い表すことができるはずもありません。そのようにこのような人格的行為は一般的括りを許さない、あるいはそのような括りでは近づけない豊かさと深さを持っていると言えます。

イエスは、この女性が或る深い「敬意」の下に香油注ぎをしたことに深い価値を見ています。数で測られる一般的な価値とは異なった次元の価値があることをイエスはみているように思います。「わたしによいことをしてくれたのだ」とは深い意味のこもった言葉だと思います。

イエスはすでに死を覚悟してこのべタニアに滞在しておられるのでしょう。「私はいつも共にいるわけではない」との言葉の背後には主の死の覚悟が透けて見えるように思います。この女性はしらないとしてもこのように後がない最後の時に彼女のなしてくれたことは、3百デナリオンによっても尽くしえない価値をもっているとイエスは言いたいのでしょう。

このように時間の中で肉の身を限られて生きたイエスは一回的な歴史的存在であり、いつでも会えるということではないと言えます。この女性はイエスと共なる時の一回性にふさわしくすべてをそこに賭けて、いわば自分の持てるすべてをこのイエスとの出会いの時に集中したと言えます。そのゆえにイエスはその行為を感謝して受けいれたのです。

しかし疑問が起こります。この女性は主イエスとの掛けがえのない時をもちえたのだとしても、私たちは2千年前の、いわば神の子が肉となった特別な時にいるのではなく、同じく暗く混乱しているとはいえ、2千年後に生きているのであり、このような特別な時の一回的重要性には与れていないのではないかとの問いが起こります。するとこの女性がなした葬りの備えは私達とは何ら関係ないことになってしまいます。

しかし9節の「世界中どこでも福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」との言葉は深い意味合いをもって私たちに語り掛けているように思われます。それはあなたもこの女性がした如く、あなたに与えられた時において、自らのなしうることを主のためになしなさいと語っているようです。聖書はそのように読むものであることを示されます。イエスは私たちの傍らで招いておられるのです。イエスは時を越えて、すべての支配者、主であると言われます。そのように主は我々の傍らに立っておられるのです。

しかしすると今度は、私はいつも共にいるわけではない、という言葉があてはまらないように思えてきます。イエスはいつも、時を越えて私たちを招かれる方であると言えます。常に私たちと共におられるのです。だからといって「わたしはいつも共にあるわけではない」との言葉が無効になるのではありません。この厳しい一回的な時の中にあるとの主イエスの言葉は一期一会として真理です。なぜなら主はいつもおられるとしても、私たち一人一人は、自らの時を唯一回的なものとして生きるしかないからです。「イエスがいつも共にあるわけでない」との言葉が真理であるのは、私たちが自らの今の時をいつも持っているのではなく、厳しく一回的に、後がないものとして晒されているからです。私達一人一人が自らのこの一回しかない時において、イエスと共に在るということが言えるのではないでしようか。イエスの福音は、その様な力をもっているのです。私たちが、そのように後のない一回的なものとして自分の時を生きるように、主がその一人一人の傍らに立ち給うというべきなのでしょう。その時、あの二千年前べタニアで「私はいつも共にいるわけではない」と言われた死を前にしたイエスが、また同時に、私たちの傍らに立つ主であり、私たちはその方によって、自らの一回的な生の底辺にどこまでも深く生きるよう促され、支えられるのです。

この女性のなした葬りの備えとしての香油注ぎというのも印象的です。決定的に去り行くことを終えた死体を拭うということ、それはそうしたからと言って、死者が生き返るわけではありません。私たちが死体に面するということは、どのように装い、拭ったとしても消し去りえない惨めたらしさの前に立つことです。それは私たちには謎そのものです。神が為される解きえぬ謎を前にして私たちの為しうる唯一のことは、自らの最も貴重なるものを携えて、そのむくろを拭うという或る意味で甲斐なき行為をすることなのでしょう。神の恐るべき謎を際立たせ、その前に立ち尽くすことでしかないのでしょう。私たちのいわゆる善き業、正しき業も、私たちが為した誤りと罪のために死にまで追いやられ、足元に転がる屍の汚れをとることでしかないのでしょう。しかもなおそのような香油注ぎを為すように、主は励まし求めておられるのだと思います。

(北白川教会員)