「隣人」と「最も小さい者」(2002年2月/3月) 高橋 伸明
「隣人」とは何の謂であろうか。この問いは抽象的、思弁的な考察の対象としては、「存在論」や「主体」という部類に属するものとなろう。しかし、具体的・身体的な考察の対象としては自己との関わり、つまり私にとっての関係性を抜きにしては問い続けることができないものとなる。私にとって無価値、無意味と思われるものは、例え「隣」にいたとしても無(いない)に等しい。その意味で「隣」とは物理的な距離を含みつつも、心理的距離の方がより重要性を持っていると言えよう。ルカ福音書一10章ではイエスと永遠の命を受け継ぐための掟について問答をした律法の専門家は、レビ記19章を引用して答えながら最後に自己を正当化するため「私の隣人とはだれか」との問いを発している。当時、あるいは現代においてもユダヤ教の通念では、イスラエル・ユダヤの同胞、とりわけ同じユダヤ教徒が「隣人」として見なされていた。それ故この問いはユダヤの一般 的な社会常識の範疇であり、当然その社会を生きていたイエスにとっても周知の事実として解答が求められた。だがイエスはサマリア人に親切にされた人の譬(ルカ10・30-37)をもって答えている。「私の隣人とはだれか」との律法の専門家の問いに答える形で。36節では反対にイエスは彼に問う。「……だれが……隣人になったと思うか」。律法の専門家は答える「その人を助けた人です」。ここで注意しなければならないことは、サマリア人の「助けた」行為とは看護、宿泊の世話、費用の負担の三点であろう。この行為はマタイ福音書25章 最後の審判の譬″の中の「永遠の命にあずかる」「正しい人たち」が「最も小さい者」にしたこと、つまり、飢え、渇き、宿なく、衣服なく、病気(半殺し!)で、投獄されている者を助けたことに相当するのではなかろうか。具体的・積極的行動を伴うこれらの行為は、現実的コンテキストで読み解くならば社会的に弱い立場に置かれ、立たされている人々を大切にし、「最も小さい者」の位 置に立ち、「最も小さい者の一人」になりきって、彼(彼女)らのためにではなく、彼(彼女)らと共に生きることであると言えるだろう。「隣人とはだれか」と律法の専門家が問う「隣人」とは、実のところ愛の客体(対象)であり、それに対して、「だれが隣人になったか」とイエスが問いかける「隣人」とは、愛の主体―共に生きるべき「最も小さい者」と結論づけられる。
今、時はレント。「最も小さい者」、社会の最底辺にいる困窮する人々の「隣人」になりきって、苦難を一身に背負ったキリストの受難(passion)。その苦難に共に与ること(compassion)によって、私たちは「隣人」に対して思いやり、共感を(あるいは共苦をも)持つことがゆるされると思うのである。