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和解すること (2010年8月号) 久米あつみ 

 酷暑の夏である。世界的な異常気候、相撲界の不祥事その他諸々のニュースのなかでもことに目立ったのは、元大韓航空機爆破実行犯のひとり金賢姫が、拉致被害者に関する情報提供者として来日したことであろう。警備の物々しさは致し方ないとして、全体的に待遇がVIP並みだという批判が少なからず寄せられたという。多大の国費をつぎ込んで行うほどの価値があるプロジェクトだったのか、ひょっとして何かのPRに使うためだったのかと、勘ぐられても仕方が無い仰々しさだった。彼女と面会した拉致被害者の方々が「来てくださった」とか「話してくださった」と感謝を込めた敬語を使っていたのにも若干の違和感があった。金賢姫と田口八重子さんの息子が本当の親子のようだ、と抱き合う場面にも何かしら割り切れない思いを抱いた人はあったはずである。私自身について言えば大韓航空機爆破事件(一九八七年)に先立つ大韓航空機撃墜事件(一九八三年)で年来の知己小林正一、郁子夫妻を失っているので、複雑な思いで連日の報道に見入っていた。拉致被害者問題の解決のためにはわらにでもすがろうという当事者たちの心持は同情に値するが、一方で「バランスというものもあるじゃない」というのが一般人の正直な感覚であろう。

  右の事例と同じとは言えないが、敵対する者同士が和解するとき、過去の出来事は棚上げしておいて和解するのか、何らかの手を打つのか。いずれにしても過去のわだかまりが消えて無くなることはないだろう。人間の小ざかしい知恵では、賠償とか報復とか忘却とか、色々の手段が考えられて来たが、「それはそれ、これはこれ」と事柄を記憶の別の引き出しにしまい込むのが実際的な平和的解決とされるのではなかろうか。

  本当の意味で和解すること、それは私たちの心の中にある敵意や憎しみを取り除かなければ実現できないであろうが、人の力では不可能である。この「敵意という隔ての壁」を取り壊してくださったのは主イエス・キリストであった(エフェソの信徒への手紙二章一四―一六節)。そして主は「和解の任務をわたしたちにゆだねられた」(コリントの信徒への手紙二 五章一八、一九節)。この至難ではあるが貴くも光栄ある任務を、私たちは背負いつづけて行かねばならないのだろう。(二〇一〇・七)