愛なき世界(2010年9月号) 大島純男

 最近、わたしたちは二つの事件に大きな衝撃を受けた。一つは、大阪市西区で起きた二十三歳の母親が一歳と三歳の子どもの育児を放棄し、餓死させた事件、もう一つは、東京都足立区で一一一歳の生きていたと見られていた男性が既に三〇年前に死んでいた事件である。このあと、日本各地で、高齢者の所在が分からないという事例が次々と出て来た。この二つの衝撃的な事件をきっかけに、家族や地域住民との絆が希薄になってしまったとしきりに語られるようになった。わたしたちには容易に信じられないことであるが、死亡届を出すことなく、年金を家族が受け続けている例が出て来た。 詩編一二七編の作者は、わたしたちの人生やわたしたちの子どもは、神からの賜物であると伝えた。パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」(六章二三節)であると述べている。

 更に、「絆」に関して言えば、コロサイの信徒への手紙に、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」(三章一二―一四節)と記されている。わたしたちは、決定的に愛を欠如させていたと言わざるを得ない。いずれにしても、遠い世界の話ではない。わたしたちの身近なところで、人知れず苦しみ悩み、その人生を終えるたちがいること、そして、わたしたちが周囲にいる人たちといかに希薄な関係しか築いて来なかったかを、はからずも、二つの事件は知らせてくれた。

 御子イエスは、「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネによる福音書一五章五節)とお語りになった。この「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」という言葉を、詩編一二七編の言葉と重ねると、「イエス・キリストを離れては、わたしたちは何もできず、イエス・キリストを離れては、すべてはむなしい」となる。お互いにむなしい人生を送ることのないようにしたいものである。