アジアの教会とアジア学院― アジア学院の出発と成り立ち ―山本 俊正
アジア学院は、1973年にアジアの農村指導者を養成する専門学校として栃木県旧西那須野町(現那須塩原市)に設立されました。アジア学院誕生の直接的な背景となったのは、東京都町田市にある鶴川学院農村伝道神学校(農伝)の「東南アジア科」(通称、東南アジアコース)でした。この「東南アジア科」は、アジアの教会の要望に応じて農伝に設置されたことが知られています。その経緯について、アジア学院創立者の高見敏弘先生(写真)は、以下のように述べています。「1959年にマレーシアで開かれた東アジアキリスト教協議会(EACC、現在のアジアキリスト教協議会=CCA)の創立総会で、農伝に東南アジアの教会のために農村指導者研修コースを設けてほしいという強い要望がアジアの諸教会の代表たちの一致した声としてきかれた。」(高見敏弘著『土とともに生きる』19頁)マレーシアで開催されたEACC創立総会は、アジアの教会が共に集い、アジア地域を拠点とするエキュメニカル運動の嚆こう矢し として歴史的な出発点でした。当時、多くのアジアの教会は、植民地支配から解放された後の国家建設に大きな関心を持っていました。総会でアジアの教会から農村指導者研修コースを設置する要望が伝えられたのは、「日本の農業」への関心の高さを窺わせます。この要請に応えて、「東南アジア科」が農伝に設置されたのは画期的でした。総会1年後という短期間、周到な準備もない開設は神の導きに他なりませんでした。その後、農伝の「東南アジア科」はアジア学院誕生の母体となり、アジアの教会と「共に生きる」働きがアジア学院に継承されます。アジア学院の誕生はアジアの教会が助産師となり、アジアのエキュメニカル運動の出発と軌を一つにする出来事だったのです。
高見先生はアジア学院創立の経緯を説明する中で、日本の教会の「戦争責任告白」についても言及しています。「『東南アジアコース』を始めたのは、先の太平洋戦争などで近隣諸国に日本が与えた多大な災さいやく厄に対する贖罪、戦争責任告白の意味があるのです」(同著、21頁)。確かに、戦後の日本のキリスト教会の歴史を振り返る時、東アジアでの戦争に加担した教会の深い反省と悔い改めがその歩みの出発点でした。東アジアにおける平和と和解の働きは、教会の宣教課題であると同時に、祈りであったのです。日本最大のプロテスタント教会である日本基督教団は、「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(1967年)を鈴木正久議長名で発表しています。また、戦後50年を迎えた1995年には様々な声明が教会及びキリスト教主義諸団体より出されました。1995年1月5日付けで、日本キリスト教協議会(NCC)は、中嶋正昭議長名で声明を出し、「神とアジアの隣人に赦しを乞い」新たな平和の歩みを誓っています。日本福音同盟(JEA)は、同年6月に開催された第10回総会で、戦時下における教会の罪責を悔い改め、戦後の歩みを反省する、「戦後50年にあたってのJEA声明」を採択しています。高見先生はこれらの声明の必要性と大切さを認識しつつも、「戦争責任の告白は、何よりもまず日々の働きにおいてなすべき行いであって、一片の文章や声明文の発表で終わるべきものではない。……わたしが日々の生活を戦争責任の告白として生き続けることである」(同著、23頁)と述べています。アジア学院の存在と働きが「戦争責任告白」の実践に他ならないことを示唆しています。
現在アジア学院は創立50年を迎え、地域的な広がりを持ちながら、次の50年に向けて、「土からの平和」、「フードライフ」、「気候正義と気候変動対策」、「教育」、「組織」の5つの分野から、新たなビジョンを掲げています。創立当時の歴史的背景及びアジアの教会との連帯の実践を心に刻みながら、新たな歩みを進めたいと願っています。「共に生きるために」。
(アジア学院理事長・日本基督教団ロゴス教会主任牧師・東京YMCA同盟会長・元関西学院大学教授、元日本キリスト教協議会総幹事)