種蒔く人(2015年3号) 大島純男
昨年の十月二十三日、小雨降る中を、松本共助会のメンバーと共に山梨県北杜市に浅川・兄弟資料館を訪れた。兄・伯教は、山梨県師範学校を卒業し、しばらく小学校の訓導として働き、朝鮮に渡ったのが一九一三年のことだった。朝鮮でも訓導として働いたが、朝鮮白磁との出会いにより、朝鮮陶器史の研究に打ち込むため、教職を辞した。弟・巧は、山梨県立農林学校卒業後、秋田県大館営林署に勤務。ほどなく、兄を慕って海を渡った。二人ともキリスト者である。巧は、朝鮮林業試験所に入所し、養苗の種子を採取するために各地を巡り、日本をはじめとする列強の乱伐によって自然が破壊されている様子に心を痛め、「種蒔く人」として、山野の緑化に努めた。 弟・巧に焦点をあてて一九九四年、江宮隆之が『白磁の人』を著した。『白磁の人』は、第四十一回青少年読書感想文全国コンクールの課題図書に選ばれた良書である。その中に、朝鮮の老人に席を譲った巧が、日本の軍人に二度、罵倒され、打擲される様子が描かれている。後日、四〇歳で亡くなった巧の棺を朝鮮の人たちが担いでいる場面に、前出の軍人・小宮礼一は、出逢い、そのときになって、初めて、彼が卑しめた男が、遠い昔、山梨時代に自分をかばってくれた浅川巧であると知る。江宮は、「小宮礼一は、朝鮮に来てからの二十年間を思った。朝鮮人を苛め、酷使し、その家々に土足で平気で上がるようなことをしていた時に、浅川巧は自分と全く正反対に生きていたのだ」と記す。 江宮は、「半年後、小宮は軍人を辞めて日本に帰った。そして敬虔なクリスチャンとして社会福祉に尽くしたが、大戦中の東京大空襲で焼死した」と短く小宮の後半生を記述した。浅川巧は、共同墓地に葬られ、後年、の共同墓地に移葬された。安倍能成は、巧について、「丈は高くなく、風采も揚がらない」と印象を述べているが、まさに、その姿こそ、第二イザヤが言い表した「苦難の僕」(参照・イザヤ五三2)ではなかっただろうか。 残念なことに、北杜市にある浅川家の墓石の正面には十字架が刻まれているものの、墓誌には、伯教の戒名が刻まれている。