「純一さ」を恥じない群れ (2015年2号) 安積力也
混じりけがなく、ひたすらであることを「純一」という。澄みきった素直な心で、対峙すべき対象に恐れなく正対し、時に、大胆に身を委ねていく在り方。幼子や青年が本来的に保持する特性。だが今、この国の子どもや青年達の多くは、この純一さを生きていない。それを心中深くに封殺してしか、生きられなくなっている。
だからだろうか、山形の山懐にある独立学園を訪問する外来者の多くが言う。「こんなに透明感のある高校生、久しぶりに見ました。」「ここの生徒は、なぜ、見ず知らずの私の目を、こんなにストレートに見つめることができるのか。」「この人たちは、なんで自分を語る言葉に〝てらい〟がないのですか。そんなこと、私は怖くてできない…」そして多くの人が添えて言う。「こんな教育を受けた若者は、〝下界〟に降りてから、大変でしょうね。」
私は今、現役教師としての人生最後の一年を、独立学園で生きている。満七〇になるまで、もう充分に使っていただいた。そう思えるのに、なぜか得体のしれない不安感が心底に疼く。思い切って学園を抜け出し、久しぶりに京都の共助の交わりに出た。北白川教会での二日間の京阪神修養会。そして、吉田山での早天祈祷会。
この下界の只中を生きる群れに見たものは、横溢する眩しいほどの〝純一さ〟だった。「純粋に、純粋に、キリストを信じることが出来ますように!」高齢になられて尚、声を震わせて祈られた先輩の祈り。それは文字通り「光ほしさに泣く赤児」(内村鑑三)の祈りであった。「百人の人と上辺でつながるよりも、一人の友とアーメンでつながる方を,私はとる」。そう語って、この世の重い馳せ場を少数者として生きぬくことへの静かな覚悟を述べた若き友の、純なる信仰の息吹。それに触れて、私の心はどれほど慰められ励まされたことか。そして、こんなにまで不義理・不肖の徒である私を、尚も涙に濡れた信の眼差しで迎え入れてくださった知己の愛。気がつくと、心底にまとい付くヘドロのような不安が消えていた。神と、キリストに在る友を、どこまでも純一に信じて、助け助けられつつ生きればよいのだ。共助の群れは、己が死に至るまでどんな老齢に達しても尚、この赤児の如き〝純一さ〟を生きることで「歴史の主」に用いられる,実に〝特異な〟信仰者の群れなのかもしれない。
本来の純一さを封印して生きるこの国の青年達の悲惨さを想う。我ら、何をなすべきか。 (基督教独立学園高等学校 校長)