八月第一主日に出会った二つの告白(2014年8号) 井川善也
(一)新たな勤務地で一年前より出席している教会は、八月第一主日を伝道開始記念の主日として、設立時に属した旧日本基督教会(旧日基)の信仰告白(一八九〇年制定)を告白します。日本基督教団においての旧教派の信仰告白の捉え方には様々な意見があり、また教団が離脱・会派問題で揺れた一九五〇年頃、当時の共助会の関係教会・教職の多くは「旧教派に基づく会派連合体」でなく「合同した一つの教会」としての教団の歩みを支える道を選びました。従って(教団信仰告白と内容的には大差のない)旧日基の信仰告白をあえて告白する事に私はある種の躊躇を抱えたまま、礼拝は進み、古い告白文の斉読が始まりました。私は全く予期せず強い感慨に襲われました。それは「この告白の下、私たちの先師(植村・森明・京都では奥田成孝とその同志の多く)は教会を立て、洗礼を授け、授けられた」という事実への感慨です。聖書・賛美歌・信仰告白のいずれもが先師の時代から一度は大きく改訂されました。歴史の継承の力を(安易に)言葉(告白文)に求めることは(殊に共助会は)慎重であるべきでしょうが、変わらぬ告白には(それが真実を含むならば)時代を結ぶ連帯の力があるのも事実でしょう。「基督のほか自由独立・主にある友情」はその力を保ち続けているのかが問われます。
(二)「K先生、ご無沙汰しています。…平和主日の説教、戦責(告白)の問題を正面から取り上げて語られていることに、驚きと感慨をもって読ませていただきました。…(注・先代の)M先生もピースウォークWの共同代表として平和の問題に関わられているようですね…。K先生もM先生も、私がご一緒した頃は必ずしもその種の問題に対し積極的・具体的な関心があるようにはお見受けしなかったので、神様は『時と場所』を備えてくださっているのだな、と思わされています。…『戦争責任告白をした教団の教会として、平和への責任を担う』と招聘状(M先生の時もK先生の時も)に記したことの重みを感じます。」(希望者に配られる説教原稿への、私の返信メール、但し抜粋と一部修正。)一年前までお世話になり今も籍を残す教会は、八月第一主日を平和主日礼拝として守ります。私がメールで触れた招聘状の文言は、教会の基本姿勢の一つとして、先々代の(師弟の系譜を辿れば浅野順一に至る)A牧師の時代以来十数年間、総会資料や後任のM、K両牧師の招聘状に繰り返し記されてきました。にも拘わらず、この説教に「驚きと感慨」を抱いた理由は、この事柄を「資料に記す」以上の形で取り上げることへの教会内の慎重な空気を、役員の務めを通して肌身で感じてきた故です。お世話になった信仰の共同体で何かが変わったのか、あるいは今後変わるのか、は私が気に掛けるべき事ではありません。ただ私は率直な思いを記して文章を結びました。「招聘状が、お招きする牧師に対してだけではなく、神様に対する教会の約束でもある事を思いました。」
(三)「イエス・キリスト」弱く破れた私たちの告白を、なお根底で支えてくださる真実の告白、私たちからの約束に遥かに先立つ神様からの無比な恵みと希望の約束。