聖書研究

旧約用語の基礎知識(3)「夢と幻」 小友 聡

 夢と幻は私たちにとって大切な信仰のエートスです。「老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル3:1)はペンテコステの預言の成就として知られています。「幻がなければ民はちりぢりになる」(箴言29:18)もおなじみの格言です。夢は眠りの中で、また幻は視覚体験として現れ、厳密には区別されます。しかし、聖書ではいずれも神の啓示に関わるものと見なされます。

1.神の計画を告げる啓示

 夢(ヘブライ語のハローム)が作用する出来事として、創世記の「ヤコブの梯子」の夢が挙げられます。ヤコブがイサクの家を離れて孤独な旅をする途中、ベテルで見た夢です(28章)。天から梯子が降ってきて、そこを天使たちが上り下りする。この不思議な夢は、神がヤコブに寄り添うことを告げる啓示でした。また、ヤコブの息子、ヨセフの物語でも夢が効力を発揮します。ヨセフは若き日に、不思議な夢を家族に自慢げに語りました。彼には夢を解く飛び抜けた知恵がありました。しかし、人生は試練の連続で、エジプトに売り飛ばされ、挙句に獄中でのどん底の経験をします。その獄中で、彼はファラオの家臣の夢を解き明かし、ファラオの宰相に抜擢されました。かつてヨセフに示された夢は神の計画を告げる啓示であったことがわかります(45:5]8)。夢と言えば、ソロモンも夢で神の啓示を与えられます。夢の中で主の声を聞き、「民の訴えを聞き分ける分別を与えてください」とソロモンは願い求めると、主はそれに応えて、知恵に満ちた聡明な心を彼に与えました(列王上3:5]15)。

 旧約では、夢だけでなく、幻(ヘブライ語のハゾーン)もまた効力を発揮します。特に預言者に当てはまり、いずれの預言者も幻によって神から召命を与えられます。たとえば、イザヤは、神殿で主が玉座に座っている姿を見て、主から召命の言葉を聞きます(6章)。エレミヤは、若き日に幻で主の言葉を聞き、目の前にあるアーモンドの枝、煮えたぎる鍋を見て、神の計画を悟りました(1章)。エゼキエルは捕囚の地で「神の幻を見」ました(1章)。それは、神の臨在を象徴する、祭儀的で謎めいた幻です。

 このように、旧約では夢と幻は神の計画を告げ、また神の臨在を証言する手段であって、それを見、体験することが秘義として語られていると言えます。

2.夢や幻への批判

 しかし、夢と幻は旧約聖書において常に肯定される、というわけではありません。しばしば否定的にも語られます。夢と幻は呪術師や占い師などの異教的な職能と関係するからです。たとえば、エン・ドルの霊媒の女はサウル王に依頼されて、亡きサムエルの霊を呼び寄せ、その声をサウルに届けました(サム上28章)。このような異教的な呪術はイスラエルにおいて排除されました。恍惚状態になって幻を見ること、また直接的に夢を語ることについて、旧約聖書は疑問を投げかけます。

 夢についてエレミヤはこう預言します。「私の名で偽りを預言する預言者たちが、「私は夢を見た、私は夢を見た」と言うのを、私は聞いた。偽りを預言する預言者たちの心に、いつまで偽りがあるだろうか。彼らは自分の心の欺きを預言する者だ。」さらにこうも語ります。「夢を見た預言者は夢を語るがよい。私の言葉を受けた者は私の言葉を真実をもって語らなければならない。」(エレミヤ23章)

 偽りの預言者も夢を語るのです。しかし、エレミヤは、自分の夢を語るよりも、神の言葉を誠実に語ることこそが重要ではないか、と言います。これは、エリヤがカルメル山でバアルの預言者たちと闘ったことを想起させます。バアルの預言者たちが踊り狂い、恍惚状態で預言するのに対し、エリヤは、冷静になり、徹底して理性的な言葉でヤハウェに祈りました(列王上17章)。

 このような預言者的エートスは申命記の言葉に集約されます。「あなたは預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。」(申命記13章)これは夢や幻に対する痛烈な批判です。そもそも夢や幻が占星術や呪術とどう区別されるのかと問うのです。

3.天に憧れ、現実を生きる

 旧約聖書において、夢と幻の評価は両義的です。一方で、その有効性がうたわれ、他方でその危険性が説かれるからです。それは矛盾ではないでしょうか。これをどう説明したらよいでしょうか。

 旧約聖書では、夢と幻は神の啓示を示す媒体として重要です。それは何より黙示文学に現れます。ダニエル書がそうです。ダニエル書では夢と幻が際立って作用し(2]5章)、それを解釈する天使が現れ、終末の到来が解き明かされます。それは神の秘義(ミステリオン)が解き明かされることであって、「隠されたものが顕わにされる」という黙示(アポカリュプシス)の本質にほかなりません。夢と幻はもちろん新約聖書でも重要です。

 しかし、旧約聖書では神の秘義を知り得ないとも言われます。極めつけはコヘレトの言葉です。「やがて何が起こるかを知る者は一人もいない」とは、終末到来の否定です(コヘレト8:7)。それは、夢や幻によって神の秘義を知る熱狂主義への断固とした否定です。コヘレトでは隠されたものは神に属する事柄で、顕わにされません。それゆえに、「夢が多ければ、ますます空しくなり、言葉も多くなる」と夢は拒否されます(5:6)。

 相反する思想が二つの焦点(中心)となり、互いに融合せず、楕円のような統一体を形成しているのが旧約聖書と言えるのではないでしょうか。夢と幻は啓示の媒介として受容されると同時に、脱魔術化が図られ、言葉による理性的理解を旧約は追求します。

(日本基督教団 妙高高原教会代務者)