聖書研究

旧約用語の基礎知識(6)「言葉」、(7)系図」 小友 聡

旧約用語の基礎知識(6)「言葉」

1.「言葉」と訳されるダーバール

 「言葉」は重要な旧約用語です。ヘブライ語でダーバールと言います。これは一般的に「言葉」と訳されますが、「事柄」とも訳せます。書かれ/語られた「言葉」の字句のみならず、その内容、原因、理由、行為、出来事という事象をもダーバールは意味します。つまり、書かれ/語られた言葉が引き起こす、さまざまな出来事や結末までを含めた事柄や事象を総括して「言葉」と呼ぶのです。一括(ひとくく)りに「言葉」という訳語にできない、意味領域の広がりを持った概念が旧約用語ダーバールです。

 旧約では「言葉」の用例は無数にありますが、とりわけ特徴的なのは、「神の言葉」を指す用例です。出エジプト記20章1節の「これらすべての言葉」は十戒を指します。ダーバールの複数形デバリームは固有名詞で「申命記」を意味しますが、それは申命記という文書がこのデバリームから始まるゆえです。旧約聖書では「言葉」という語彙(ごい)感覚において「神の言葉」がまっ先に想起されます。それを何より具体的に説明するのは創世記の創造物語です。神が「光あれ」と言葉を発すると、「光があった」という出来事が生じます。神の語る「言葉」は創造的な出来事として現出するのです(1:3)。

 日本語で言う「言霊(ことだま)」がこれに近いかもしれません。日本には古来、言葉に魂が住んでいるという独特な思考があります。字義としての「言葉」が言霊となって、物理的に作用するという呪術的/魔術的な思考です。しかし、旧約聖書では「言葉」が実体的に作動するのではなく、「言葉」において神の創造的力が発揮されます。その背景に神へのまったき信頼があります。旧約のダーバールは、唯一神信仰と密接に関係し、神との契約を前提にしています。

2.預言者の「言葉」

 このダーバールの特徴が典型的に見られるのが預言者の語る預言です。預言者は神によって言葉を与えられ、それを預言として語ります。預言者が召命を受ける際に、「主の言葉が私に臨んだ」(エレミヤ書1:4)と記されます。このヘブライ語を直訳すると、「私にあった、主の言葉が、すなわち……」です。しかし、この「(主の言葉が)私にあった」ということは動的であって、「主の言葉」が上から垂直に下って、預言者を捉え、預言者に「語れ」と応答を迫るという出来事であることは明らかです。それゆえ「私に臨んだ」と訳されます。預言者にとって「言葉」は、預言者自身を揺り動かし、生き方を変更する決断を促すのです。象徴的なのは、エレミヤが葛藤の中で「主の言葉は私の心の中、骨の中に閉じ込められて、燃える火のようになります。……私は耐えられません」ともがき、叫ぶときです(20:9)。

 「主の仰せ」という言葉もイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書に頻出します。このヘブライ語「ネウム・アドナイ」は、直訳すれば、単に「主の託宣/言葉」にすぎません。しかし、それは預言者が語っている途中で、それを中断させる如く、突然、主が預言者に語った、という啓示的出来事を証言しているのです。

 預言者における「言葉」でもう一つ特徴的なのは、言葉が象徴的な主体的行動を促すことです。たとえば、エゼキエルが神から啓示された「巻物」(神の言葉)は食べものとなって、それをエゼキエルは食べます(3:3)。これは、神の民が「言葉で生きる」ことを象徴する、預言者の象徴行為です。預言者は神から受け取った「言葉」を象徴的な行動で創造的に表現するのです。それは神の救済史の予兆となります。ホセアは生まれた3人の子供たちに象徴的な名前を付けました。いずれも神の裁きを示す忌まわしい名前です(1章)。預言者が神から与えられた「言葉」は、そのつど目に見える創造的出来事として現出します。

3.「言葉」のダイナミズム

 「言葉」のダイナミズムは詩編にも見られます。29編では、「主の声」は驚くべき、さまざまな自然現象を引き起こします。19編では、神の創造の御業が「言葉」として表現され、さらにまた「主の律法」と言い換えられて、神の栄光が称えられます。この詩編では、「言葉」は創造の力によって天地万物を造り出すと同時に、神の民を正しく教え導く、と言われます。これは最初に実例として挙げた、創世記の祭司的な創造物語と呼応しています。119編では、言葉はやはり律法と同一視され、その「言葉」への揺るぎない信頼が表現されています。「主よ、とこしえに、あなたの言葉は天に堅くとどまっています。あなたのまことは代々に及び、あなたが据えられた地は揺らぐことはありません」(89�90節)。詩編では、「律法」(トーラー)と神の言葉(ダーバール)は同一視され、その意味において、聖書そのものを指すと読むことができます。

 旧約聖書では、「言葉」は極めて動的であって、神による創造を導き出し、神の救済の歴史を形成していく、という特徴があります。神の民イスラエルは、この言葉を与えられ、この言葉で生きるのです。ヨハネ福音書の冒頭で「言葉は人となって現れた」というイエス・キリストの受肉の思想も、旧約のダーバールの創造論的、救済論的思想の延長線上にあるということができます。

旧約用語の基礎知識(7)「系図」

1.トーレドートしての系図

聖書では「系図」が独特な意味を持っています。新約聖書マタイ福音書冒頭にはイエスの「系図」があり、アブラハムから始まっています。またルカ福音書3章には、アダムに遡るという記述があります。これによって「系図」は旧約聖書との連続性を示すことがわかります。「系図」の起源はそもそも旧約聖書にありますが、それではどのような機能と意味を有しているのでしょうか。

 系図は、選ばれた人物の名を挙げ、属する家、氏族、部族、民族の連なりを血統において示します。ヘブライ語で「系図」をトーレドートと言います。旧約では重要な用語ですが、必ずしも「系図」という意味だけではありません。旧約で最初に出てくるのは創世記2章4節です。「これが天と地が創造された次第である」。「系図」とは訳されておらず、「次第」がトーレドートです。祭司文書の重要な言葉ですから統一して「系図」と訳すべきなのですが、文脈からそう訳すことはできず、「次第」と翻訳されます。次に出てくるのが5章1節で、「アダムの系図は次のとおりである」です。ところが、その次の6章9節は「ノアの歴史は次のとおりである」。この「歴史」がトーレドートで、やはり「系図」とは訳せないのです。つまり、トーレドートは「系図」「次第」「物語」と訳され、旧約ではこのような意味の広がりのある概念だということです。

2.「系図」という概念

 「系図」は祭司文書に典型的に現われ、祭司的な概念です。旧約聖書では、「系図」は文学的に機能します。物語記述の始まり、あるいは、おしまいに系図(トーレドート)が記され、それが物語全体を枠づける機能を果たします。創世記の創造物語を辿(たど)ると、「系図」はまず、アダムからノアに至る物語を枠づけ(5:1)、次にノア自身の物語(6:9)、セム、ハム、ヤフェトの物語(10:1)、テラからアブラハムに至る物語(11:27)、さらに、イサク(25:19)、ヤコブ(37:2)へと続きます。アダムからヤコブに至る創世記全体を網羅していることがわかります。祭司的な系図は、神による歴史を、世代を超えて続く人々の連なりとして証言します。それは言うまでもなく父系的系図です。その背景に古代的な家父長制の思考があるのは確かです。

 系図は王に関する歴史記述でも用いられます。ルツ記には、ルツを娶(めと)ったボアズを含めて、ダビデに至る系図が記されます(4:18〜22)。また歴代誌上はイスラエルの歴史をアダムに遡(さかのぼ)って再記述し、アダムからダビデに至る系図を記します(1:1以下)。この歴史書には、イスラエル12部族や祭司の家系が詳細に記されています。捕囚後の歴代誌的歴史家は、ユダ王国に起源するユダヤ教団の正統性を支持し、系図によってダビデ家の王の血筋の連続性を証言しているのです。旧約聖書において、自らの家系的アイデンティティーを明らかにする系図がいかに重要であったかがわかります。しかし、このような血統への関心は、次第に、それ以外の者を除外する排他的な民族主義へと傾いてゆきます。エズラ記・ネヘミヤ記には、捕囚からの帰還民の系図が記されますが、その中で系図の不確かな者が祭司職から排除されるという記述が見られます(エズラ2:62、ネヘミヤ7:64)。

3.系図の意義

 系図は、過去から現在へと途切れなく続く歴史の確かさを描きます。それはまた、神が導き、神が共に歩んだ歴史を証言します。旧約聖書がそれをいたるところで記述することに、神の民イスラエルにおける系図の重要性が現れます。系図は客観的で、歴史的事実を証言する記述としてきちんと理解されなければなりません。イスラエル民族主義はそれに基づいています。けれども、旧約聖書には系図を相対化する思想もあります。それは血族的な民族主義を超える普遍主義的な思想が存在する、ということです。

 たとえば、イザヤ書56章には、身体的な障がいを有する者が神殿礼拝から排除されてはならないと記され、19章ではイスラエルの敵であったエジプトやアッシリアが、驚くべきことに、救済においてイスラエルより優先されます。いずれも系図を否定する内容です。申命記ではイスラエルの民に属さない寄留者も保護されます(24:17〜22)。先ほど指摘したルツ記のルツは、モアブ人の寡婦でしたが、ユダ族に属するナオミの親族ボアズと再婚し、ダビデの曾祖母となりました。このルツ記の特徴的な記述は、新約聖書の冒頭において、イエスの系図で証言されます(マタイ1:5)。

 旧約の系図は、イスラエルの選びが排他的で、家父長的であり、極めて偏狭な民族主義であることを物語りますが、それとは異なる普遍的救済をも旧約聖書は証言します。これは、聖書には矛盾が存在するので、あれかこれかをその都度、恣意的に選択すべきという意味ではありません。民族主義と普遍主義の両方を焦点とした複数原理の楕円的構造を旧約聖書は示しているのです。新約聖書では、系図に関する無益な論争を戒めています(テトス3:9)。信仰共同体で系図を根拠に自らを誇ることは好ましいことではないのです。       

(日本基督教団 妙高高原教会代務者)