寄稿

存在というプレゼント  M.O

青年の夕べ (最終回)

聖 書:詩篇139編:23―24節

 この青年の夕べ最終回に感話する機会をいただけて、最初はわたしに!? とすこし驚きました。それでも、奏楽の奉仕をきっかけに参加させていただくようになってから、お一人おひとりのまっすぐなことばを聴くたびに、自分だったら何を語るだろうかと想像していたこともあり、こうやってお話できることは嬉しくもありました。

 とはいえ、自分が感じていることをことばにするというのは、わたしにとってなかなかエネルギーのいることで、それが自分の外へ向けたものとなるとなおさらでした。

 「説教でもなく、証しでもなく、講演、研究発表、報告会でもない。聴きたかったのはありのままの声、あるがままの生 ―。」

 『いのちの言葉を交わすとき』(ヨベル)の帯にはこう書いてあります。まだわたしの中には、自分を主語として話すこと、自分の話をすることにうしろめたく感じる自分、取り繕わない自分を見せることを恐れている自分がいると気づきました。

 昨日、この感話集を読み返していて、去年の夏休み、この本に心が救われたことを思い出しました。進路を決められず、先の見えない不安でいっぱいになってしまっていたときでした。もう未来に希望をもてないようにすら思えていたときに、この本を開き、こんな気持ちになっているのは自分だけだと思い込んでいたわたしに、一緒だよとよびかけて、真っ暗な未来をやさしい光ですこし照らしてくれたようでした。

 すてきなことばで語れなくても、わかりやすくまとまっていなくても、重荷に感じているものから解放されて、そのままの自分で話せばいいのだと思い出させてくれました。

 今回選んだ聖書箇所は、自分自身の祈りにすごく近いものだと思っています。

 ICUに提出した入学願書に「受洗をきっかけに自分に望まれている生き方とは何かを考えるようになり、ずっと持ち続けてきた舞台芸術に関わりたいという夢に進むべきか迷いが生じました」「どう生きるのか、という問いに向き合い、自分が夢とどう関わるのか、自分に望まれている生き方は何か、見定めるためにICUで学びたい」と書いていました。高校生のわたしの素直な気持ちだったと思います。

 幼い頃から母に連れられて教会に通い、高校2年生の時に洗礼を受けました。受洗をきっかけに、と書いていますが、裏のというかきっかけはもう一つあって、ものすごく努力した高校受験に失敗したことで、頑張っても神様の御心じゃなければ叶わないのだと、すごく落胆したことがありました。そこから、結果に向かって努力すること、何かを願うことが怖くなり、自分のしたいことではなく神様の御心を求める生き方を求めなければならない、と思うようになりました。この思いは、失敗するのが怖い、期待して叶わないことが怖い、という自分本位なものでした。

 小学生のときに劇団四季の舞台に感銘を受け、この世界に関わりたいと思うようになりました。いわゆる娯楽というものに関わること、この夢をもつことを神様は喜ばれるのかなと思うような気持ちもありました。

 幼い頃は、自分がやりたいことをしたい、やりたくないことをいやいやするのは嫌だと思っていました。その思いを改めるきっかけがもう一つありました。

 医療従事者である父と母は、とても忙しく過ごしていて、患者さんの容態が急変すると、夜中寝ていたのに起きて向かわなければならなかったり、災害時には避難所や保健所に行ってずっと帰ってこないということもありました。そんな両親の姿を見ていて、やりたいことしかしたくない、という自分がすごく恥ずかしくなったのを覚えています。人のためになることをしなければ、と。

 中学生頃から、優等生としての頭角を表し始めていた(?)わたしですが、今思い返すとあの一言は大きかったなと思うのが、担任の先生にクラスの派手なグループの子たちと比較して、「岡嶋は自己主張が強くなくていいね」という言葉でした。小学生までのわたしはけんかもそれなりにしていましたし、言うべきと思ったら言う子どもでした。この言葉を言われた当時は、褒め言葉として深く考えずに受け取っていましたが、自分は目立とうとはしない優等生でなければならない、と思うようになったと思います。誤解してほしくないのですが、先生のことは恨んでいませんし、この言葉をシェアするか迷ったのですが、自己主張することに後ろめたさを感じてしまう、この思い込みからそろそろ自由になりたいなーと思って、ここでシェアさせていただきました。

 そんなふうに過ごしてきたので、大学受験の時に何がしたいのかと問われても、うまく答えられない状況でした。やりたいことはあるけれど、これが正しいのかわからない、主張していいのかわからない、御心を教えてくださいと祈る日々でした。

 高校3年生の夏休み、ICUの先生がキリスト教概論の本を出すという情報を目にして、父に買ってきてもらい、すがるような気持ちで読みました。そこには、自分が今まで考えてはいたけど言葉にしてこなかったような問いと、先生と学生がともに向き合う姿がありました。なかでも、「あなたの傷の中にあなたの使命がある」ということばに心が惹かれました。ひとのために傷を負われたイエスさまのように、傷があるからこそ、気づける痛みがあり、できることがある。自分にとっての傷とは何か、まだわからないままでしたが、ICUで使命を見つける学びがしたいと思い、入学を決めました。それであの願書を書いたわけですね。

 ICUに入ってから、本当にたくさんのことを学びました。なかでも、自分の使命について、自分のためではなく、人のため神様のためと言い聞かせていたわたしに、そうじゃないよと教えてくれる人がたくさんいました。

 ひとにやってあげたいと思うことは、自分にもした方がいいんじゃない? と言ってくれた友達がいました。だめな理由が思いつかないな、とこんなシンプルなことにも気づけなかったのだなと思いました。まわりが自分にやってほしいことは喜んでできるのに、自分のやりたいことはよくわからない。まわりに求められていることをする方が安心する自分にも気づかされました。

 オフィスに行っては、人生におけるMissionとは何か、という話をしてくれた先生がいました。人間はBody(からだ)、Mind(理性)、Spirit(心)があって、それがぜんぶ喜んでできること、一致するところにMissionがある。気づかないふりをしているかもしれないけど、きっともうある。本当の自分の姿を解放するために、自由になるために、ICUでリベラルアーツをするんだよ。

 先週、福島にワークキャンプに行って、飯島先生と横並びで歩くタイミングがあり、「Mさんは10年後どうなってるんだろうねー」と言われました。飯島先生はすごく笑顔で、温かい日差しの中でわたしもぽかぽかした気分で、「どうなってるんでしょうねー」と返しました。

 そうしたら、飯島先生は、「ひとから求められる、必要とされるっていうのも、大事だと思うよ」と言っていました。「それが自分のやりたいことと一致したらいいよね」と。

 自分が必要とされるところ、求められるところ。先生もそうやって働き場所を選んできたのだろうな、と思いました。ひとから求められることを優先しすぎて苦しくなりがちで、少し距離を置いていたけど、素直にいいなと思いました。

 その日の夜の語らいの時間に、先生はわたしたちの存在そのもので、いい影響を生んでいるんだよ、と言ってくれました。ここにきたこと、働きに参加したこと、それだけで喜んでくれる人たちに出会いました。

 以前、帰省したとき、久しぶりに会った祖母に「いるだけでいい影響があるんだよ、幸せなんだよ」と言ってもらったことを思い出しました。

 たまにしか会えないひとたち、それでもただわたしの存在を喜んでくれるひとたちにたくさん出会いました。そのたびに、何かを返さねば、一緒にいれるうちに、別れたあと余計に寂しくさせてしまわないだろうか、と申し訳なく思ってしまったりもします。

 でも、ただただ存在を喜んでもらえるというのは本当に嬉しくて幸せなことです。

 デザイナーで働き方研究家の西村佳哲さんの著作『自分をいかして生きる』(ちくま文庫)は、仕事と人生、働き方と生き方、誰にも肩代わりできない一人ひとりの生に直結する仕事と真摯に向き合う本です。

 この本の中で、プレゼントという言葉の語源は、ラテン語でto beを意味する言葉であると知りました。プレゼントとは、「生きて・いる」ことであって、存在そのものが贈与である。何をくれる、してくれるという以前に、「わたしがいて、あなたがいる」という存在の交わし合い、わたしがいることで、相手がよりいるようになる。そんな仕事の考え方がありました。

 思えば、舞台芸術の世界に憧れたのもこの思いに近かったように思います。高校受験に失敗して、複雑な思いで始まった高校生活でしたが、とても恵まれ、念願だった演劇部に入部して、素敵な仲間と多くの舞台に立つ経験をしました。そこで、顧問の先生に教わったことは、役者とは自分をプレゼントする存在だということです。役を演じるとは、そのキャラクターを自分の内側から引き出すことであって、役を通して自分の内側をお客さんに見せて、共感してもらえた時に感動が生まれる。いかにそのキャラクターになりきるか。自分を良く見せるかということばかり考えていたわたしにとって、この考え方はとても納得して、プレゼントできるような素敵な人間力のある役者、ひとになりたいと思っていました。

 思えば、わたしという存在そのものも神さまからのプレゼントであるとも言えます。最近、申命記を読んでいるのですが、わたしもイスラエルの民と同じように、何も持たないままに愛され、値なしに恵みをいただいていることを思い出します。

 「あなたの神、主は、あなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てたのではない、大きくてすばらしい街々、あなたが満たしたのではない掘り井戸、あなたが植えたのではない、ぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与えてくださる。それであなたは、食べて満ち足りるとき、気をつけて、エジプトの地、奴隷の家からあなたを導き出された主を忘れないようにしなさい。」(申命記6:10�12)

 与えられたものに執着するのではなく、感謝して、タラントとして輝かせる時、そこには失敗への恐れはないのだと思います。わたしはやりたいことに向き合わず、全力を尽くさない言い訳に、御心を求めているという口実を使っていたのかもしれません。

 「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」(ヨハネの手紙第一 5:3)

 まだわからない、と答え続けてきたわたしでしたが、そろそろ一歩踏み出さなければいけない時が近づいてきているようにも思っています。いつか答えるのではなく、今応えるものとして。自分のBodyとMindとSpiritが喜ぶ方へ、心を尽くしていのちを尽くして力を尽くして神さまを愛するように、ひとのため自分のため神様のためになるような生き方をしていきたいです。      

(国際基督教大学4年)