寄稿

盛岡に『共助』が来ました     Y.W.

 2、3年暖冬が続いて油断したところへ、今季は予想外の厳寒、大雪に見舞われた盛岡にもやっと春を思わせる日が訪れています。

 昨年秋から、「奥羽キリスト教センター」内のキリスト教書店「善隣館書店」に『共助』を置いてもらえるようになりました。さらに編集人石川さんのお計らいで、2部の寄付をいただきました。その1部は、私の所属教会日本基督教団内丸教会に、もう1部は、同じく日本基督教団下ノ橋教会で読んでもらうこととしました。先日下ノ橋教会員の方にお聞きしたら、目に留めて読んでいるとのこと、また内丸教会牧師も定期購読をしてくれるようになりました。

 共助会、『共助』はまだ当地では知られていません。内丸教会で『共助』を置き始めることを話す時に、共助会発足の経緯、創設者森 明のこと、その息子である森 有正のこと、現在の『共助』のことを伝えました。

 盛岡は人口約27万5千人の地方都市ですが、カトリック、聖公会を含めて約23の教会があります。内丸、下ノ橋教会ともに125年以上の歴史を持つ教会です。その歴史に、『共助』が新たな光となることを願ってやみません。

 さて、盛岡にゆかりのある文学者と言えば、石川啄木と宮澤賢治が知られています。石川と違って、宮澤は盛岡で過ごした青春時代、市内の教会や、寺院に通っています。カトリック四ツ家教会、プロテスタント内丸教会、浄土真宗願教寺での法話会、曹洞宗寺院での参禅などです。花巻の宮澤家は地元の名家であり同時に熱心な真宗門徒でした。

 浄土真宗西本願寺派の願教寺は当時、明治仏教界の大立者島(しま)地(ち)黙(もく)雷(らい)(1833-1911)が住職をしていました。仏教の革新と再生を目指した黙雷は、キリスト教を仏教拡大の最大の障がいとみなし、神道の国家宗教化を目指していた明治政府からの保護と支援を得るため、神道には手を触れず、神道をして「神道は宗教に非ず」と定義しました。そして神道の下位にある「宗教」の範疇内で、仏教、キリスト教の優劣を論議し、キリスト教を排除しようとしたのです。

 やがて、島地が提唱した「神道は宗教に非ず」というテーゼは、戦中にかけてキリスト者の神社参拝や皇居遥拝、天皇制迎合に対する葛藤の緩和のために利用された経緯があるのです。

 宮澤が法話に出た当時の住職は黙雷の女婿(むすめむこ)島(しま)地(ち)大(だい)等(とう)が跡を継いでいました。宮澤は大等から影響を受けた面が大きいでしょう。しかしながら、宮澤の信仰は、最終的に田中智学国柱会日蓮宗に収斂(しゅうれん)していきます。あり得ない話ですが、もし宮澤がプロテスタントキリスト教会でバルト神学に触れていたら、あるいは、という仮定を私の心のどこかに潜ませたい思いを消すことができません。 

 (誌友 日本基督教団 内丸教会員)