戦後80年 詩編23編 上野 瑤子
昭和16年(1941年)3月に、生まれ故郷の京都から父の都合で鎌倉に引っ越しました。小学校一年の時です。3月の海岸は人も少なく磯の匂いで一杯でした。4月から鎌倉教会の日曜学校に通い始めました。バス停「材木座」から一人でバ
続きを読む昭和16年(1941年)3月に、生まれ故郷の京都から父の都合で鎌倉に引っ越しました。小学校一年の時です。3月の海岸は人も少なく磯の匂いで一杯でした。4月から鎌倉教会の日曜学校に通い始めました。バス停「材木座」から一人でバ
続きを読む1945年8月5日の夜。 当時7歳(小学校1年生)の私は、前橋市に住んでいて「前橋の空襲」を体験した。夕方から警戒警報のサイレンは鳴り止まず、探照灯(たんしょうとう サーチライト)が何本も空を照らし、不安な思いで一杯だっ
続きを読む1945年、敗戦の年、私は10歳でした。 その一年ほど前、池袋駅の近くにあった生家の店は、強制疎開ということで取り壊され ました。そのころには番頭さんも、そして父も出征していて、母はそれよりずっと前から東村山の保生園(ほ
続きを読む私は、1934(昭和9)年、福島県の阿武隈山地の中程の片曽根(かたそね)村(現田村市)の生れです。今は独立学園の史料整理・環境整備などをしています。今年91歳です。 父は炭屋をしながら早稲田で学び、卒業後は帰郷し28歳で
続きを読む高校2年生で主イエス様に出会い、大学1年生の夏に洗礼を受けました。たくさんの方々と出会わせていただき、神様の恵みをいただいてきました。その歩みの一部をお話しさせていただきます。 1 大学生時代 ⑴ 「埼玉大学聖書研究会」
続きを読む「私たちの存在の一部は、ごく幼いころに棄てられた。完全にみとめられたという気持ちを一度も味わっていない部分である。そこには不安がぎっしりつまっている。」〔ヘンリ・ナウエン『心の奥の愛の声』〕 私は一九四四年(昭和一九年)
続きを読む私は1929年4月生れですので、1945年8月15日は16歳、旧制中学の4年生でした。 ところで、1941年12月8日、日本軍の米ハワイ真珠湾攻撃によって、大平洋戦争が始まり、私は小学校の6年生でした。 翌年1942年4
続きを読むベルギーは、1960年代には労働力不足を補うため積極的に移民を受け入れていましたが、70年代の不況で失業率が高止まりしてからは移民制限に舵を切りました。私が住むフランダース地域では、90年代から右派政党が台頭し、現在に至
続きを読む1 はじめに 満州の年表(*)によれば、「昭和2212月現在、引揚げ対象者数660万人中584万人が引揚げ完了。残りはシベリア抑留50万人、樺太・千島20万人、満洲6万人、他に中国、大連、北鮮など。と推定された。」とあり
続きを読む第二次世界大戦の終結から、80年後の現代も「国益」を追い求め、自らの理論に縛られて引くことのできない戦火がやまない現代である。 かつて日本も選択を誤り「失敗」が予測されていたにもかかわらず、戦争につき進んだ。「総力戦研究
続きを読む10月1日はお隣り中国の国慶節で、長い休暇に入ります。 といっても抗日戦争勝利なので、多くの人たちは海外旅行、とりわけ日本は近くて安くておもしろいと、旅行に行くことを楽しみにしています。 特に若ものが増えているようで、日
続きを読むコルネリウス・ヤンセンは、17世紀にイーペルという都市の司教だった人です。彼はアウグスティヌスの研究をし、その著作に大きな影響を受けました。ヤンセンによると、善行ではなく神の一方的な恵みのみが人間に救いをもたらします。そ
続きを読む崔秀蓮さんとは1990年2月、日本語学校の個人教授の教室で初めて出会い、京都の小笠原亮一先生を紹介したのがきっかけで共助会のみなさんとの交流が始まりました。韓国で開かれる韓日基督教共助会修練会には毎回参加し案内や通訳など
続きを読む「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としていてそこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭くその道も細いことか。それを見出すものは少ない。」 マタイによる福音書7章13節~14節 今日ここに
続きを読む終戦の時私は5歳でした。1965年に『熱河宣教の記録』が発刊され、沢崎良子夫人や父の手記等から、終戦前後の状況を知りえて、感謝しています。 戦争末期、父は聖和女子学院に勤めていたが、『陛下をはじめ全同胞が血みどろになり、
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