贖罪の信仰のみ(2006年7月号) 飯島 信 

 馬偕(マッカイ)先生。この名を初めて耳にしたのは、今年の初め、池袋台湾教会の友人に連れられて訪れた台湾北端の淡水の地であった。台湾からの若き留学生である友人は、私をRev.George Leslie Mackay(1844-1901)が建てた台湾で最初の教会堂に案内してくれた。馬偕先生、彼はカナダ長老教会宣教師として二八歳の時に台湾での伝道活動を始め、五七歳で台湾で永眠した。彼が創設した淡江高中学校の敷地の一角に彼が眠る墓地があるが、その墓碑には、ヨハネ一二・二四の御言葉が刻まれていた。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 台湾に初めてキリスト教を伝えたキリスト教を伝えた宣教師マッカイにしても、あのザビエルやその後を継いで日本宣教の責任者となった巡察師ヴァリニャーノにしても、そして、私たちの小さき群れの先達、沢崎堅造にしても、キリストの命ずるままに、キリストのみ従い、その生涯を神と未だ福音を知らぬ人とに捧げ尽し、異郷の地で眠りについた。

 この春、日本聖書神学校で共に学び卒業した十二名のうち、他教派の一名を除く五名が主任・担任教師として、残りの六名が担任教師として全国各地の日本キリスト教団の教会に派遣された。文字通り、キリストの命ずるままに、キリストのみ従い、牧者としてその生涯を神と人とに仕える道を踏み出したのである。

 この時、森明を思う。共助会を思う。森明はなぜ教会の他に共助会を創立したのか。そして、共助会を「キリストの他、自由独立の団体」とし、「主にある友情」に生きる人々の群れたらんとしたのか。

  森明が祈り求めた地上の教会、それは「贖罪の信仰を共通の土台とした共同体」であった。そこには、教会も無教会も、カトリックもプロテスタントもなかった。ただ贖罪の信仰その一点において一致できる教会であった。しかし、数百年にわたってそれぞれの教派的伝統を背負いつつ歴史を歩んできた教会は、そのような一致を許さない現実があった。その時、森明の心深く生まれた祈りが、教派を超えた信仰共同体の形成ではなかったか。キリストのみを中心とした交わりに生きる教派を超えた同志的伝道団体、それが共助会であった。その交わりに招き入れられて、三五年の歳月が経とうとしている。

  森明、彼もまた、キリストと出会い、一粒の麦となった。