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真実の愛への応答として(2006年8月号) 橋本洽二  

 森明先生が自ら起草された「共助会主旨」の冒頭「基督を諸友に紹介せんとする目的をもって云々」という言葉は、紹介という表現に深い意味を含んでいる ものの、キリスト教の団体としてある意味では自明なことでもあり、むしろ第二段落として次のような文章を、これをも目的として追加されたところに森先生の真意の一端を見る思いがする。「基督の教訓と人格とに対して質実なる態度をもって接近せられんとせらるる友の助力者ともなり、かつわれらの日常寂寞た る精神生活を相互に慰め、清き友情を結び、共に助け進まんこともまた、本会の目的とする処である。」時代を経た今、この第二段落こそが共助会の最大の特 色となってきている感さえある。

 森先生は非常に教会の礼拝を大切にされたが、人間の持つ弱さの罪を身にしみて感じていた人として、折角教会で洗礼の恵みに与りながら容易に脱落して行 く者たちへの心からの同情と憂いとがあった。共助会は教会とは異なり将来解散することもあり得る性格の団体である。しかしそれは「世の教会が真の教会になったとき」であるということも同時に言われる。真の教会とは何かとの議論は措くとして、教会は個性・能力・経歴等雑多な人々の集まりであり、日本のような社会における理想的な教会形成への道は、人の思いで見れば限りなく遠い。共助会は教会で満たされない人の逃げ場ではないが、現実に教会に疲れた者(教派を問わず)が共助会に来て息を吹き返し教会に戻る力を与えられることは今迄も起こっており、そういう面でも主に用いられていると信ずる。

 我々の信仰は主イエスを三度否んだ時のペトロのような切迫した事態に限って問われるのではない。奥田成孝先生は「キリストの外自由独立ということはキリストにだけは絶対に従うということでもある」と言われたあと、「歴史の中に人の子として立たれたキリストは神をどう信じて生きられたか、キリストのお目には人間はどのようにうつったのか、その中に立たれてキリストは自らをどう自覚して生きられたか。質実謙虚に学びその消息に従いいくことであるとも教えられたことである」と語られた。前記の「主旨」を掲げた共助会の先の大戦中の在り方を、深い悔恨とともに振り返りつつ戦後を過ごされた先達の言葉として味わいたい。我々は、真の人として世に降られたイエスの御苦しみと、御父への信頼のもとそれに打ち克たれたイエスの御愛を想うことなしに、自らの日常的な罪の現実に気付くことはできないし、真に「主にある友情」に生きる者ともなり得ないであろう。