追悼

キリスト教と文化 ――田中邦夫兄を偲びつつ 下村喜八

 四 交わりへの招き

 承前

 ブルンナーは名著『出会いとしての真理』において、三位一体その他の「教義」についてギリシア哲学にもとづく実体的名詞的な捉え方を批判し、それを動詞的に考える必要性を力説した。これも同じ観点からである。三位一体とは、動詞的には、父なる神とキリストとの交わりへの「招き」なのである。「これ汝らをも我らの交わりに与らしめんためなり」(Ⅰヨハネ手紙一・三)、また「ある人、盛んなる夕餉(ゆうげ)を設けて、多くの人を招く」(ルカ一四・一六)とある通りである。そこに示されているのは〈神のはたらきかけ〉である。私は、ブルンナーを読む前に、奥田先生から、森明の三位一体論として同主旨のことを聞いたことがある。

 (……)神が「昨日も今日もまた明日も働きたもう」ということは、神が「絶対的永遠に招きたもう」ということである。信仰とは、教義への信仰や同意といったことではない。少なくともそれが中心ではない。信仰とは何よりも「神の招き」に応じるという動詞的なこと、応答的なことである。信仰に関することはすべて応答的なことであり、動詞的に解釈されなければならない。そしてこの〈動詞的な捉え方〉の重要性こそ、キリスト教と文化の関係交渉の問題を解明する上で、もっとも重要な鍵なのである。(『共助』2019年第2号、19頁)

 まったくその通りであると私も思う。信仰とは神の招きに応じることである。奥田先生の言葉を借りれば、「信仰とは父なる神と子なるイエスとの愛の内にある一つなる交わりのなかに、弟子たちと共に迎え入れられること」、人格的な、愛と信頼の関係である。したがって、上記の、「信仰に関することはすべて応答的なことであり、動詞的に解釈されなければならない」という言葉は、「信仰に関することはすべて人格関係のなかで成り立つことである」と言い換えることもできる。教義や使徒信条への同意は静的・名詞的なことである。信仰がそれらを知性的に承認することになり人格的信頼関係を欠けば、もはや信仰とは言えないものになる。それゆえブルンナーは、「正統主義の信仰(=教義信仰)はあれほどまでに愛に関して貧弱なのである」(『出会いとしての真理』、教文館・国際基督教大学出版局、143頁)と言う。

 田中兄は、「文化対キリスト教の問題」は森明の生涯の課題であったが、それはただ単に森明の生涯の課題であっただけでなく、この世におけるキリスト教の全歴史は、その成立以来、「キリスト教と文化の問題」であったと言う。そればかりでなく、――共助会の先達である原田季夫の言葉を借りるかたちで――、「福音と文化の関係論こそは人類歴史に残された最大の課題であると言っても決して過言ではない」としている。「福音と文化」の問題は私たちキリスト者にとって神の国の到来までつづく巨大な射程をもつ課題であると。その通りだと思う。

 ところで文化との関係のなかで、キリスト教の真理性を思想の上、および実生活の上で明らかにすること自体、キリスト教を証しする宣教行為そのものであると言える。同時に、自身の信仰を確かなものとすることであり、キリスト者としての自覚を強めることである。この世との戦いのなかで、「福音を恥としない」(ローマ1・16)心の姿勢を与えられることになる。

 さらに根本的には文化との対話は、イエス・キリストご自身が生きられたことであり、キリストに従って生きるキリスト者の責任であり、使命である。パウロは「わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」(ローマ1・14]15)と言っているが、その責任をパウロはどのようにして果たそうとしたのであろうか。「コリント書一」において、ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、律法を持たない人には律法を持たない人のようになり、弱い人には弱い人になると言っている。これは、他者の生きる文化のなかに入ってゆき、他者の立場に身を置くことではないであろうか。イエス・キリストは私たちの所まで降りてきてくださった。そのキリストに生かされて、私たちもまた他者の立場に身を置くことを求められている。キリスト者は二階から一階に降りてゆくことが求められている。さらには、一階と二階を行き来することが求められている。そのようにしてキリスト教の真理は証しされてゆき、またそのようにして、私たちは父と子の一つなる交わりのなかに入れられ、福音に共にあずかる者とされる。       (日本キリスト教団 北白川教会員)