巻頭言

基督教共助会百年、神の御業に生きる 飯島 信

「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで神の国を下さる。」(ルカによる福音書 第12章32節)

日本にキリスト教が伝えられてから470年、森明誕生より131年、そしてキリスト教共助会創立より100年となる2019年を迎えた。神がフランシスコ・ザビエルを日本に導き、神が森明に生を与え、神がこの日本の地に共助会を設立された。

その御心は何か。共助会を捨て石として、日本の地に神の国を建設することである。

 

神の国、それは、遠い彼方にあるのではない。私たち一人ひとりが生を営むこの世のただ中にある。今、この時、神の国はすでに私たちの所に来ている。ただ、それを見出す真実の信仰の眼、招き入れられる信実の心が、私たちの内に

宿っていないのである。

森明が賭けて生きた友情は、イエス様が教えた第一と第二の戒めにその命を持つ。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛し、隣り人を愛せよとの戒めである。愛するとは、自分を大切に思うと同じように、大

切に思い、自分を労わるのと同じように、労わることである。朝目覚めてから夜眠りに入るまで、ほんの少しでも良い、自分に与えられた時間を神と隣り人を愛するために用いる時、それは神の国の時となる。

 

あるいはまた、森明の実践を押し出して止まなかった力は、イエス様から与えられている。死に至るまで、十字架の死に至るまで神に全く服従されたイエス様は、神を愛し抜かれたのである。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛し抜かれたのである。神に愛されたからである。そして、森明もまたイエス様に愛され、その愛を知っていた。

神の国、それは、神がこの日本の地で成そうとしている御業である。私たち人ひとりを福音に生きる者として用い、それぞれが遣わされた場で御業に与る時、私たちは神の国に招き入れられている。そこでは、神を愛し、隣り人を愛することに全ての営みが凝縮される。

そうであるなら、100年を迎えた今、私たちは共助会の使命とした神の国建設の来し方の歩みを真実に省み、神によって準備されている明日への道を見出したいと思う。その道を見出すべく祈りを一つにしたいと思う。そして、己が罪を負って下さったキリストの贖いの十字架への感謝と、甦りによって神の国を私たちに約束して下さった福音の喜びを、未だ知らぬ人々に告げ知らせつつ、与えられた生を全うすることを祈るのである。