巻頭言

「なぜ」と問うことを止めずに生きる  小友 聡

新年度に寄せて希望を書いてほしいと飯島さんから依頼されました。私は3月に神学大学と中村町教会を辞し、現在は妙高高原教会の代務者のほか教会の責任を担っていません。地方で暮らす実質的な隠退牧師ですが、新年度の私の「希望」について言葉を紡ぎます。

希望という言葉は、今、誰もがあえぎ求めている、切実な言葉だと思います。ジェノサイドと言うべきイスラエルによるガザ侵攻、ロシアのウクライナ侵略戦争、朝鮮半島の緊張、東アジアとアフリカでの武力紛争、さらに過酷な自然災害が追い打ちをかけます。おびただしい弱者たちの酷い死と、その家族の慟哭に黙するしかないやりきれなさ。絶望としか言いようのない現在の世界のありように、「希望」を見出せません。夢を語れない時代になりました。

若松英輔さんがこういう詩を書いています。「夢を語るな もっと 現実的になれ どうして そんなことを 言うんですか かなえられなくても わずかな希望があるから どうにか 今日を生きていける それが現実なのに 迷いながら小さな夢がともした ひとすじの光を たよりにして 生きている それが わたしたちの ほんとうの 現実なのでは ありませんか」(『ことばのきせき』亜紀書房、2024年)心に沁みる詩です。「かなえられなくても、わずかな希望があるから、どうにか生きている」という詩の言葉が、今の私たちの「希望」を言い当てています。

「希望」は旧約聖書のヘブライ語ではカーワーという語に由来します。それは「張りつめる」という意味です。ぴんと伸ばした糸のように張りつめている。そこから「待ち望む」という意味が生まれます。かつて月面に立った宇宙飛行士が暗黒の宇宙空間の彼方に青々と浮かぶ小さな地球を見て、自分が一本の見えない糸で地球と繋がっている不思議な確信を抱いたそうです。その確信がまさしく「希望」ということではないでしょうか。暗黒の向こうに小さな希望があります。

絶望の中で、目に見えない一本の糸で繋がる希望があります。それはキリストを指差します。

酷い絶望的な世界の現実の前で、「なぜ」と問うても、何一つ答えることはできません。けれども、「なぜ」と問うことを止めずに生きようと思います。「現実的になる」とは、「なぜ」と問うことを止めてしまうことだからです。キリストという「わずかな希望があるから、どうにか今日を生きていける」。この若松さんの詩にたじろがぬ希望を教わりました。

(日本旧約学会会長)