和解の使命に生きた先達を追って 飯島 信
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネによる福音書第 12 章 24 節、1954年改訳)
1992年3月 31 日、韓国基督教共助会が生まれた。ソウルで行われた第一回韓日基督教共助会修練会三日目、最終日 であった。委員長に李 英環(李凡医院院長)、総務に尹 鍾倬(初代教会牧師)、その他洪 彰義(ソウル大学病院長)と裵 興稷 (慶安高等学校長)が名を連ねていた。しかし、この誕生を、誰よりも深い感動と感謝をもって受け止めた者がいた。李 仁 夏(在日大韓基督教会川崎教会牧師)である。1941年3月、彼の通っていた泰成(テソン)中学校が神社参拝拒否によって総督府か ら閉校措置を受け、 50 名の仲間と共に日本に留学して以来、李 仁夏は解放後も日本に残り、在日同胞の人権獲得のために 全生活を賭けて戦っていた。その彼にとって、中学生時代、留学先の京都で交わりを得たものの、戦後の混乱や朝鮮戦争 の惨禍の中で消息すら不明であった先輩たちと再会出来ただけでなく、彼にとって日本人キリスト者との交わりの原点となる基督教共助会が韓国でも生まれたことは、日韓の架け橋となる使命をも負って日本に留とどまった彼にとって、どれほどの喜びであったであろうか。
李 仁夏から直接聞いた話がある。彼が涙にくれて降りるべき駅を乗り過ごしたことがあった。それは、1972年7月 4日、統一に関わる南北共同声明が発表され、その文書に目を通していた時の事であった。韓日の架け橋となること、そ して南北の統一……、李 仁夏の在日同胞の人権獲得運動に賭けた生活を根底において支えた祈りである。
李 仁夏が第一回修練会報告書の序文でも述べていると同じように、韓国共助会員が相次いで御許に召され、残された者 たちの高齢化により、今や韓日の交わりを生み出す「一粒のからし種は……土にうずもれるように、視覚では見えないも のになった」ようですらある。しかし、その種は「激動の時代を貫いて、知られないままに、芽ばえ、静かに育ってい」く ことを私たちは知っている。
韓日の歴史において、私たちの罪の赦しと、韓日両国の和解の営みが必要とされる限り、韓国共助会と日本の共助会の 主に在る交わりが絶えることはない。そして、その営みに生涯を賭けた李 仁夏、和田 正、澤 正彦を始め、彼らを韓国の 地にあって誠実の限りを尽くして受け止めた李 英環、洪 彰義、尹 鍾倬らきら星のように並ぶ韓国共助会の先達の願いと祈りを覚えながら、韓日の明日に向かって、神の憐れみの中に私たちは新たな歩みを始めたいと思う。(基督教共助会委員長)