同時代を読むことの困難について─奥田先生との立ち話から 田中 邦夫
昔の北白川教会の、畳の間と板の間を仕切る柱に手をやりながらぼんやり外を眺めていると、奥田先生が近づいて来られて、やがて森 明の話になった。晩年の植村正久について森 明が「先生でももう時代が読めなくなっている」という話で、最後に「どういうことかねえ」と、自問とも他問ともつかない言い方で話を終えられたのが、強い印象として残っている。この問いは、その後私の中で時の流れにさからってその重みを増していった。それはこういうことである。
戦後書かれた日本近現代史の本を読んでいると、戦前の日本の歴史についてかなり性急で威勢のいい論断にしばしば出くわした。しかしやがてそれらの著者たちの多くが、自分自身の時代については自らが思っていたほど的確ではなかったことが時代の推移とともに気づかされていった。自分の時代を見る視点それ自体が同時代に強く拘束されていたのである。同時代を捉えることには独特の困難が付きまとうがゆえに、独自で根源的な考察が要求されるのである。森 明や矢内原の発言の重みはこの困難を背景に理解されねばならない。すでに古代ギリシア人は、この事態を、歴史を司る女神クリオの滅多に人間にその顔を見せないごく控え目なイメージによって証言していた(H・ノーマン)。
現代の証言としては、W・ブラント西独外相(当時)の物議をかもした一種挑発的な発言がある。「西ドイツ共和国の政策は相変わらず、未来の2000年よりも、1933年〔ヒットラー政権誕生〕により強い影響を受けて決められている。簡単には払拭できない負い目であり遺産である。我々の反対者たちは、過去を記憶に留める方をよりよく行い、未来を想定する方がより困難だという一般によくある慣習と能力を、我々に対抗して悪用している。内外の敵にも反対者たちにも、今日解決を迫られている明日の諸問題を強く意識させる必要がある。後ろ向きになっていては、それも不可能である」。
私はブラントのこの自在な率直さが好きである。しかしここで重要なのは、彼が最優先する「今日解決を迫られている明日の諸問題」をその〈構造性〉において追求している点である。そしてこれこそは共助会がいまだ到達していない水準なのである。たとえば『九十年史』には「歴史的社会的構造の罪」(172頁) とあるが、ではそれはどのような構造なのか、という問いをいまだ共助会は提起していない。そこには問いの不徹底性がある。しかし、自己明確化が徹底を欠くとき、いかなる組織もやがて進むべき方向と視界を見失うのである。《信仰における問いの徹底》、それは矢内原の「神の全経綸は救いの徹底にかかっている」という洞察と、どこかで深く照応しているように感じられる。
こうして、あの鈴木淳平先生の定席に近い柱のもとでの奥田・森両先生との信仰問答は、私にとって今なお進行中なのである。
(前鹿児島大学哲学教授)