福音伝道と時代への責任(2015年1号)飯島 信
「あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」
(コリントの信徒への手紙1 第6章19節b─20節a)
北白川教会の任を退かれて横浜・戸塚に居を移された奥田成孝先生をお訪ねした時のことである。しばしの語らいが終わり、2人して祈った後、先生が別れ際に言われた言葉を忘れることが出来ない。「飯島さん、この国の政治はどうなって行くのでしょうか」と。私はその時、先生が法学部で学ばれたことを思い出した。そして、先生はこの国の行く末を真剣に案じておられることを改めて知らされたのである。
キリスト教共助会創立九六年を迎えた今この時、共助会に与えられた使命はますます明らかとなっている。それはキリストの十字架の贖罪と復活の信仰に堅く立ち、時と所を選ばず友にキリストを紹介する使命に生き続けることが1つ、さらに1つは、この時代への洞察とこの時代に生きる責任を担うことである。
1919年の創立より敗戦に至るまでの二六年間の共助会の歩みは、その一切の業を若き友たちへの福音伝道に賭けてきた。かつての中国侵略という過ちも、熱河宣教に生き死にを賭けることによってその罪を償おうとした。しかし、敗戦後の70年の共助会の歩みを省みる時、戦前において失ったアジアの隣人との信頼を真に回復する歩みであったかと思うのである。それは、今招来している日本の現実と切り離して論じることは出来ない。
キリストの十字架という代価を払って神様に買い取られた私たちは、もはや自分自身のために生きるのではなく、キリストの招く道へ、キリストに導かれながら、祈りつつ歩み出さねばならない。その道の一つである先達らが築き上げてきた韓国の友との交わり、台湾の友との交わりを大切にしたいと思う。そして、さらに中国の未だ見ぬ友との交わりを思うのである。
しかしまた、たとえどれほど誠実に時代への責任を担おうとも、森明の次の祈りに貫かれることなくして、代価を払って買い取られた私たちの務めを全うすることは出来ない。贖罪の信仰によってのみ、神様の導きを知ることが出来るのだから。
「新生の歓喜、永遠なる生命、安心立命の秘密……これを持続し完成に至らせるために、なおも主のあがないの真理をえ、『汝の罪赦されたり』(マルコ伝二)との救いの確信に伴うて、絶えず潔めらるるために祈り、また死すとも同じき罪過を犯すまじとの主の聖愛に対する重き責任の心より生ずる努力を、寸時もゆるがせにすることはできぬ。キリスト者は実に戦争の一生を送らねばならない。ただ平和なるは、戦いに勝ち給える主イエスの十字架のみ陰によるときのみである。」(森明)
(一)新たな勤務地で1年前より出席している教会は、8月第1主日を伝道開始記念の主日として、設立時に属した旧日本キリスト教会(旧日基)の信仰告白(1890年制定)を告白します。日本キリスト教団においての旧教派の信仰告白の捉え方には様々な意見があり、また教団が離脱・会派問題で揺れた1950年頃、当時の共助会の関係教会・教職の多くは「旧教派に基づく会派連合体」でなく「合同した一つの教会」としての教団の歩みを支える道を選びました。従って(教団信仰告白と内容的には大差のない)旧日基の信仰告白をあえて告白する事に私はある種の躊躇を抱えたまま、礼拝は進み、古い告白文の斉読が始まりました。私は全く予期せず強い感慨に襲われました。それは「この告白の下、私たちの先師(植村・森明・京都では奥田成孝とその同志の多く)は教会を立て、洗礼を授け、授けられた」という事実への感慨です。聖書・賛美歌・信仰告白のいずれもが先師の時代から一度は大きく改訂されました。歴史の継承の力を(安易に)言葉(告白文)に求めることは(殊に共助会は)慎重であるべきでしょうが、変わらぬ告白には(それが真実を含むならば)時代を結ぶ連帯の力があるのも事実でしょう。「基督のほか自由独立・主にある友情」はその力を保ち続けているのかが問われます。
(二)「K先生、ご無沙汰しています。…平和主日の説教、戦責(告白)の問題を正面から取り上げて語られていることに、驚きと感慨をもって読ませていただきました。…(注・先代の)M先生もピースウォークWの共同代表として平和の問題に関わられているようですね…。K先生もM先生も、私がご一緒した頃は必ずしもその種の問題に対し積極的・具体的な関心があるようにはお見受けしなかったので、神様は『時と場所』を備えてくださっているのだな、と思わされています。…『戦争責任告白をした教団の教会として、平和への責任を担う』と招聘状(M先生の時もK先生の時も)に記したことの重みを感じます。」(希望者に配られる説教原稿への、私の返信メール、但し抜粋と一部修正。)一年前までお世話になり今も籍を残す教会は、八月第一主日を平和主日礼拝として守ります。私がメールで触れた招聘状の文言は、教会の基本姿勢の一つとして、先々代の(師弟の系譜を辿れば浅野順一に至る)A牧師の時代以来十数年間、総会資料や後任のM、K両牧師の招聘状に繰り返し記されてきました。にも拘わらず、この説教に「驚きと感慨」を抱いた理由は、この事柄を「資料に記す」以上の形で取り上げることへの教会内の慎重な空気を、役員の務めを通して肌身で感じてきた故です。お世話になった信仰の共同体で何かが変わったのか、あるいは今後変わるのか、は私が気に掛けるべき事ではありません。ただ私は率直な思いを記して文章を結びました。「招聘状が、お招きする牧師に対してだけではなく、神様に対する教会の約束でもある事を思いました。」
(三)「イエス・キリスト」弱く破れた私たちの告白を、なお根底で支えてくださる真実の告白、私たちからの約束に遥かに先立つ神様からの無比な恵みと希望の約束。