大地は主のもの 創世記1章9~13節 小友 睦
私の住む辺りは奥羽山脈の最北に位置し、自然が豊かな所です。山々はブナ林とツガ林が顕著で紅葉も美しい所です。中でも南八甲田櫛ヶ峰山域や八幡平葛根田川源流地域は原生自然保護地域で、人工的な敷設物を設置する事が一切できず、登山道も標識もありません。今は殆どいなくなったマタギの領域です。そんな所は更に紅葉が美しく、山登りのベテランが付けた赤リボンを捜しながら道なき今は初冬の山登りを一人楽しんでいます。故に事前の計画通りにはいかない。自然の大地をトレールし、そこで野営する事は心地良いものです。人里と自然が隣り合わせ、また融合している、そんな日常(勿論、教会と施設の仕事をこなしながらです)をSNSで発信しています。教会員にも「共生農場」として、自然と人とが共生する農業を模索して開放している方もいます。登山愛好家のSNSで先日、共感の拡散になりました。その方は私より年輩ですが、末期癌の治療中で、それでも毎週のように投稿を送ります。「先日手術を受け、昨日山に登った。もうこの山には登れないかと思うと、この山に初めて登った感激がこみ上げて来た。いつまで続くかは分らないが、最後まで続けていきたい。」と、必ず美しい山の写真を添えます。そういう投稿です。それに対して多くの仲間からの返信がありました。その返信に私も共感しました。というのは例えば「止めなさい」「無茶をするな」とか否定的なものが全くない、前向きなのです。その方も返信に対して丁寧に前向きに返信をするのです。私も時々教会関係の方にSNSで山の事を掲載する事があったのですが、「怖いと感じないのか」「あえて苦しい事をする事が理解できない」「時間の浪費だ」、そういう応答があり、今は引いています。「隣人を愛せよ」「癒し合おう」等と言う教会で、何で前向きになれないのだろう、と疑問を抱きながらも、それを逆に投げ返すのも後ろ向きなので、楽天的に行こうと思うこの頃です。ささやかながらこういう北の大地に生きた先人の足跡を辿り、纏めています。
創世記一章に「地(大地)」という語があります。「地」よりも「大地」に心地良さと親しみを感じます。日本では「大地」という名前もよく見られますが、日本以外で人の名前にはっきりと「大地」と名付けるのは余り見られないのではないでしょうか。それだけ日本では大地に親しみを持っているのでしょうか。この創世記の大地という語にはどんな背景があり、大地を聖書の人々はどのように見ていたのでしょうか。一方で私達は大地をどう見て、接してきたのでしょうか。
キリスト教界で「大地」を神学のテーマとしたのは最近の事です。日本では岩手県出身で宮沢賢治の研究家のカトリック神学者の小野寺功が取り上げました。小野寺以外に日本で大地を神学のテーマとして取り上げた方は私が知る限りではいません。小野寺は宮沢賢治の唱えたイーハトーブの自然観を大胆に用います。イーハトーブとは岩手をエスペラント語で表記した語です。小野寺は日本の神学のみならず教会でも知る人は余りいないでしょう。日本の精神と風土から聖書と神学との対話をした方だからです。勿論、神学者として伝統的な教理を弁えた上で自然・風土をつぶさに見、対話します。日本のクリスチャンに日本的という自覚があるならば、日本という風土や文化や宗教との対話を本当にしているのか、小野寺の大地の神学は問います。小野寺の大地の神学は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』からイメージされるような宇宙的ロマンではなく、大地を神の霊の宿る場所として、人間と同じように神が愛するものとして尊ぶ場所です。小野寺は大地に生命があり、霊性が宿り、それは大地を通してそこに生きる人間に与えると言います。アッシジのフランシスコのように大地と対等に対話します。徹底的に此岸的なのです。天の視点ではなく自分が生きている地上、そこが大地なのですが、その大地の視点に立つのです。創世記で、神の創造の業の3日目では、その前日に神が天を創られた視点から大地に目を移させます。そこに命が生じ、命の営みが行われるのです。そこでの業はとても簡潔で素朴ですが、ダイナミックで且つ自然環境への労りのある創造の業でもある事が見えてきます。
創世記一章で地を表わすヘブライ語はエレツです。旧約聖書ではもう二つ土地を表す語があります。一つはアダマーです。創世記2章では土から人間を創った。だから人間をアダム(土)と呼びました。ここからアダマーは土壌、作物を育てる為の土を意味すると言えるでしょう。もう一つ土地を表わす語はナハラーで、これを「嗣業」と訳します。ナハラーは神の民イスラエルに神が与えられた土地、所有地を指します。神から与えられた土地だから、創世記の一章の地もナハラー(嗣業)であると見なすでしょうか。創世記の初めではそうではなくエレツなのです。嗣業というのはやはり神が人間に管理を委ねた土地なのです。神の民イスラエルがそこに住み、生活の糧の為に守る土地が嗣業です。その嗣業を巡ってイスラエルは争いを繰り返す。今もそうなのかも知れません。でも旧約聖書の最初、創世記1章ではエレツ(大地)を神の創造の初めにもってくるのです。それは大地が神のものであって、どんな人でも、仮令神の民イスラエルでも独り占めする事の出来ない地、大地、これは人の手の届かない自然界全て(=生態系)と言い換えていいと思います。人間の創造に先立って神は世界に大地をお創りになった。その最初から大地を人間の所有物とする事を拒絶するのです。
エレツという語には特徴があります。ヘブライ語のエレツ(大地)は女性の性質をもつ語です。というか女性形でしか用いられていない語です。文脈によって大地を「母なる大地」と訳す事も可能です。それは遡ればフランシスコも宮沢賢治や小野寺功も唱えた事です。神はその母なる大地を通して命を生じさせるのです。アダマーもナハラーもそれらは人間の生活と切り離せない限定的な土地概念でしょう。しかしエレツはもっと広い正に大地なのです。日本では専ら男性に「大地」という名前を付けるでしょう。しかしエレツの性質、ヘブライ人の感覚からすると奇妙な事にならないでしょうか。この辺りは聖書の世界に生きていた人々の言葉と日本人の言葉との間でかみ合わされない点の一つと言えます。でも私は聖書の意図に沿うならば、日本では女性に「大地」という名前をつけるべきだと思います。それは歴史を振り返りますと、人間社会はエリート男性によって支配され、大地もそういうエリート男性によって奪い取られ、所有物とした事も指摘できるからです。でもイエスは「野の花を見なさい」と言いました。この「野の花(クリノン)」も大貫隆が示唆する事として、イエスが語った元々のアラム語は女性形であったと思います。イエスはエリート男性の視点ではなく野に咲く花々、大地に咲く花々、その視点から見ていた。というかイエスには大地を所有するとか、大地をどう使うか経済価値的、功利的な考えがない。大地は神が与えた善きもの。大地の痛みは神の痛みだという、エレツの視点が根底にあるのです。
自然について顧みますと、私達人間は自然である大地を経済的価値で捉えてきました。自然環境を大切にする。それは「エコロジー」という語で表現できます。エコロジーとはギリシア語のオイコスとロゴスの合成語です。オイコスとは「家」「人間が住む所」です。ロゴスは「論理」「学問」で、エコロジーとは「居住学」「環境学」という事になるでしょう。似た言葉に「エコノミー」というのがあり、オイコスとノモスの合成語で、ノモスとは「律法」「法則」という意味です。故にエコノミーは「家計学」「経済学」という事になるでしょう。二つの語の起源は「家」(「世界」とする方もいますが)で、エコロジーもエコノミーも人間から見た世界の捉え方でしょう。踏み込むならば国家や社会組織が主導し、コントロールする事のできる意味でのエコロジーでありエコノミーです。
エコロジーという語が用いられるようになったのも19世紀後半、生物学者ヘッケルが造語したとされます。ヘッケルは自然のエコノミーとして用いました。自然を経済原理で捉えるのです。それはより生物学的な広がりを持つようになり、後に生態学と呼ばれるようになりました。ヘッケルのエコロジーは生物進化論を唱えたダーウィンによる影響が大きいと言えます。そこでもまだ人間が中心である事には変りがありません。然るに倫理として捉えるには至らず、ダーウィンは生物間における生存競争を社会経済の競争原理のように体系づけました。一方でエコロジーの「エコ」を節約とか質素という意味で捉え
る事はないでしょうか。そこにはまだ経済原理が根底に残っていると言えるのではないでしょうか。エコロジーを人間中心から、経済原理に左右されない生態系中心に意味を変えたのは、1940年代にアメリカで国立公園の監視官をしていたアルド・レオポルドだと言われています。レオポルドは元々ハンターでした。レオポルドのしていたハンターとは日本でいう処のマタギのような生き方です。レオポルドは自然の只中に生き、それを見ていました。国立公園という場所を定めた当時の行政機関の人はそういう自然環境そのものの本質を見て理解したのではなく、それでいて国立公園を定めた。そういう人との視点がレオポルドとはそもそも異なるのです。それは日本の農林水産省の官僚と農民との違いに譬える事ができるでしょう。自然の中で自然と共に生きたレオポルドはエコロジーという語を使わず「ランド・エシックス」という言葉を用いました。ランド・エシックスとは「土地倫理」、寧ろこれは「大地の倫理」です。「土地」という語にはどこか人間が支配し、人間が所有している地という考えがあります。そこには経済原理があります。一方このランドとは「地」ではなく、人間のみが所有し、コントロールする意味ではない「大地」なのです。ランド・エシックスは国家や社会制度主導ではなく自然環境と自然景観の観察、そこから出発する事になります。生態系にあるのは生物間の競争原理ではなく自然の倫理である。そこにレオポルドは気付いた。人間がそこでするのは必要最小限という事になる。それは自然への配慮、自然についての倫理と言い換えていいでしょう。人間中心から生態系中心の自然観と視点を変える事は、当時の人々のように大地の中に身を置かないと発想できないかも知れません。大地の痛みは神の痛みと感じる事は自然について経済的価値観から自由になる事でもあります。さて神は大地に植物を生えさせられます。創世記一章で描く大地は水が乾いた所です。水の乾いた所に種から植物が生えたと述べます。ここを描いた人は現代的な意味で科学的な考え、生態学的な考えには基づいてはいません。然るに最初の植物は海の中でできたとするのが定説でしょう。葉緑素を持ち、そこで起る光合成によって酸素を放出し、細胞分裂し、繁殖する植物は海の中でできたとするのが合理的です。初めの灼熱の地表に植物が生えることは不可能です。温度の変化の幅の少ない、寧ろ一定な水の中で生物が生きるには適しています。また灼熱の大地に植物の種が初めから存在する状態ではなく、酸素がそのような地表でできるのか説明もできません。でも創世記はそういう疑問に答えるのではないのです。
ではなぜ創世記の記者は大地に植物が繁茂し、それを後の人間が守るように命じたのか。そこにも既に何らかの自然破壊があったからだと考えられるのです。創世記の1章で描く大地の生成とは、大地が現れる前の地表は海であって、その海の一部が乾いて大地になったという事です。この大地の生成のモティーフは他の箇所にもある事に気が付くでしょうか。それは創世記六~九章にあるノアの方舟の物語です。神はこの世界を全て水で満たしてしまう。つまり世界を混沌に戻してしまうのです。そこで残された生物は方舟で漂います。やがて雨が止み、次第に水嵩が減って乾いた所が現れます(創世記8:13)。この乾いた所が創世記1章と同じ正にエレツ(大地)なのです。そこに残された生物を載せた方舟が着き、そこから新しい世界が始まるというものです。創世記1章の大地の生成を描いた人はノアの箱舟物語を知っているのです。というかノアの箱舟物語が象徴しているのは、新バビロニアによって滅んだイスラエル、そのイスラエルが再生しようとしているのを見ているのです。更にそのイスラエルの再生を預言した預言者の心にも通じているのです。即ちイザヤ書56章以降を預言した預言者は終末論的に、大地―人間だけではない被造物全て―の回復と尊厳を預言しています。私が山登りをしたのは、物心つく前から父に連れられて行った事からです。父は俄か地質学者で、地質学者の視点です。幼い自分は理解できたか分りません。石の種類、地層の年代、地形の成立ち、父はそれらを話しました。でも私は余り関心がなかったと言えます。それより面白い形の石や木の枝を探す事。何より楽しかったのは山の中でテントを張り、大地で野営する事の心地良さでした。多分父も私の関心がそこにあるのを分っていたのでしょう。一人で山登りする事を止めませんでした。本当はしてはいけない事ですが、珍しい石や化石を拾って来ては父に喜ばれました。今も机の上に拾ってきた化石を置いています。父のようにはいかないけれど、山に登ってこういう地形や景観はどうしてできたのか。この植物はなぜそこに生えているのか。そこにしか出来ない、生えないという事は感覚的に分るようになりました。それは父が教えた事が自然に身に着いたからだと言えます。私が次第に自然環境を守りたいと感じるようになったのはその中で極く自然に起った事です。創世記一章の記者と同じように素朴であり、自然には治癒力があり、自然の倫理がある。何万年、何百万年という月日の中で形成されて今の姿になった自然とその景観がその儘であって欲しい。大地の痛みは神の痛み。ここから私は原発には反対ですが、今の在り方には全面的に支持できない事は正直な処です。というのは原発、更に自然保護を国家権力の問題としている処があります。国家と対峙する姿勢としての教会。一方で国家の支配装置としての原発。そういう国家を批判する。そこに人間がコントロールするものとしての嘗てのエコロジーの思想がまだ潜んでいます。そこでは原発を止める事が目的であり、自然の生態的な回復は脇に置かれてしまいます。そもそも原子力とは自然界に殆ど存在しない放射性物質を抽出精製し、莫大なエネルギーに転換する事です。太陽のようなエネルギーをコントロールできるのか。理論的には核分裂という臨界状態を閉じ込める。これはほんの一瞬だけ可能なレベルに近付きましたが、コントロールする事は不可能です。人間は人間が抽出した放射性物質を処理する方法すら発見できない。こういう状況です。国家がこれ以上核開発をしないように反対し運動する事は必要です。でも国家にそれを止めさせた処で自然界は汚染されたままです。放射性物質は自然治癒力の限界を越えます。残された放射性物質の処理はそれを生み出した国家が責任を負う事になるのです。それは膨大なコストと技術を要する事になるでしょう。私達ができるのは自然の倫理で今ある自然を守る、自然の治癒力に配慮する。それはできるはずです。それとも膨大なコストと危険を冒して放射性物質の処理技術に自然の回復の希望を託すのか。その究極の技術は太陽に放射性物質を投下する事にならないか。果してそれは神が善しとされる事なのか。それは大地処か神さえ経済原理と技術の支配下になる事を意味します。そこで神は大地を再び混沌に戻すでしょうか。少なくとも私達がそんな考えを起さない事です。