暴力の世界とイエスのビジョン 荒川 朋子

【説教 2022年度 夏期信仰修養会 開会礼拝】

ヨハネによる福音書17章20―26節

私たちは今、インターネットの発達によって、画面上であるとはいえ、世界中で起きていることを良いことも悪いことも、ほぼリアルタイムで知り、観ることができます。連日トップニュースで流れていたロシアのウクライナへの侵攻の様子は、市民が個人のスマートフォンで撮影した写真や動画が瞬時に送信されるので、メディアが入り込めないような場所の詳細なことでも、私たちはいつでもどこでも知らされることが可能です。ミャンマーのアジア学院の卒業生からは、昨年のクーデター後の実情が頻繁に伝えられてきます。森の中に避難を続ける避難民の様子や、ゲリラ戦を繰り広げる反政府軍に食糧を運ぶために森の中に分け入っていく青年たちの後ろ姿やその足音までも、以前では考えられないような写真や映像が来ることもあります。先日は私の所属する西那須野教会で、コンゴ民主共和国の学生が平和と紛争解決のための自身の団体の活動を話してくれました。コンゴ民主共和国の内戦後の混乱は想像をはるかに超える壮絶なもので、見るに堪えない説明や映像を事前にいくつも削除せねばならないほどでした。

このように私たちは恐ろしい暴力を日常の中でとても身近に感じることができるようになりました。どんなに平和で静かな生活を送っていても、どんなに避けようとしても、同じ地球上に残忍な暴力が起きていることは、隠しきれない紛れもない事実で、私たちはみんな「暴力の世界」で生きているということを知らされます。そして日常的に「暴力」にさらされている私たちは、知らず知らずに日々傷ついています。自覚はなくとも、私たちは皆、「暴力の世界」に関わることにより途方もなく傷ついているのです。暴力の渦中にある人はもちろんのこと、それを知ってしまっただけの人たちも、自分の無力さや、そんな暴力の世界が作られ維持されていることに間接的にでも加担してしまっているという罪悪感に囚われたり、過去の辛い経験を思い出してしまったり、自分の心理にマイナスに働いていくことも多々あると思います。

このような「暴力の世界」に生きる私たちを、そして深く傷ついている私たちを、神様はどのように見ていらっしゃるのでしょうか。神様は聖書のいたるところで、争わず、平和に柔和に、互いに愛し合って生きよ、とおっしゃっています。でもそれは一見とても突き放したような非現実的な期待にも思えます。神様が「暴力の世界」を一方で作りながらも、達成しようとするビジョンは何なのか、今日は『暴力の世界で柔和に生きる』(日本キリスト教団出版局 2018年)という本をガイドに考えてみたいと思いました。この本は、スタンリー・ハワーワスというアメリカ人神学者とジャン・バニエという、障がい者と共に生きる「ラルシュ」という共同体の創設者(フランス人)との共著です。このラルシュというコミュニティは、差別され、社会の隅に押しやられ、排除された障がい者とその方たちをサポートするスタッフとボランティアたちが共同生活を送るコミュニティで、日本を含む世界中に存在します。

この本の中で、ジャン・バニエが「戦争と平和」について考え、ラルシュ共同体が果たすべき役割は何なのかを追求する箇所があります。バニエは人と人を隔てる「壁」、特に力ある者と力ない者とを隔てる「壁」が対立や争いに関係すると言いました。創世記の3章でアダムが神に背き、神がアダムを探しているのに、アダムは恐ろしくなって隠れるという場面を引用し、「恐れ」こそが私たちの心に「壁」を築くと彼は言います。

わたしたち人間はみなか弱く、人と人の間に、孤独や神不在という土台の上に壁を築いていきます。それは、恐怖の上に立てられた壁です ― 「その恐れが、絶望を抱かせ、あるいは、自分が特別であることを周りに知らせたくなる衝動になっていくのです」と説明します。

ではその「恐れ」とは何なのかと、バニエはラルシュで共同体の仲間と追求していきます。するとそれは「拒絶」「放棄」「成功できないこと」「挫折」「堕落」「死」などであることがわかり、それらは自分が「まるで無価値であり」「存在しないかのようにみなされることに対する恐れ」を生み、それが意識できるようになると、「今度は引きずり下ろされることから身を守ろうとする衝動」がはっきりしてくる、と言います。つまり、自分の尊厳が失われることへの恐怖の自覚と、そこからさらに深く引きずり下ろされるかもしれないという可能性から何としても自分の身を守ろうとする衝動が暴力に発展していくと言うのです。これは身近な暴力においても、歴史上の多くの対立の事実とも重なります。そして今のロシアにもミャンマーにもまた同じ理屈があるように思います。

イエス様の生きておられた時代もまた例外ではなく、混乱の最中、対立や暴力がいたるところに起こっている世界でした。しかし、イエスがそんな世に描いておられたビジョンは「桁外れだった」とバニエは言います。それは、イエスがそんな荒れた世の只中で、「人々を呼び集めながら、出合わせ、対話させ、互いに愛するように」お働きになったからだと説明します。

もっと正確には、イエスがおいでになり、わたしたちと共有しようとしておられるビジョンとは、人々と出会い、人々を信頼することをめぐってのものです。イエスを信じるとは、わたしたちが愛されていることを信頼することです。宗教やその他の集団に属するということよりもずっと深くにあるものを知ることです。そこには、信実の友、イエスの友、神の友になるという根本的な経験が存在しているのです。とバニエは言います。そして、その後にこうあります。

しかし、このわたしはそれを独りで知ることはできません。このわたしには、共同体が必要です。このわたしには、友が必要なのです。

争いの世にイエスが描かれたビジョンの達成には、共同体、コミュニティ、そして友が不可欠だと言うのです。ではなぜ共同体、コミュニティ、そして友が必要なのでしょうか?

多様な人々が集められるコミュニティでは、多様な人々と対話を繰り返すことで、私たちはいつの間にか築いてしまった自分の心の奥底の「壁」の外側、あるいは反対側の人たちと出会い、共に対話することによって、その人たちの賜物を発見し、それを感謝することができる、それによって分裂がいやされていくとジャン・バニエは言います。なぜなら、そういう「壁」の外側、反対側の人たちと共に喜び、祝い、幸せに生きることは、つまり互いに愛し合うことは、自分の中に大きな変革をもたらすからです。

バニエの場合は、その「壁」を障がいのある人々との間に見出しました。その「壁」を取り崩して、その人たちと共に楽しむことを学ぶのはそう簡単なことではないし、時間もかかることでありますが、バニエはこういって私たちに希望を与えます。

私たちは、福音がもたらすビジョンに立ち帰らねばなりません。―それは人間は一つになることができるという約束です。

それは、一致と平和と受容というビジョンです。それは人と人との間にあり、そして集団と集団にもある壁は崩されていくという約束であり、しかも、力づくでそのことが達成されるのではないという約束です。そのことは、心の変化を通して―変革を通して―起こります。

その約束は今日の聖書の箇所(ヨハネによる福音書17章20―26節)でイエスが繰り返し祈った祈りに込められています。その場にいた弟子たちに対してだけでなく、未来の教会、これから信になるであろう人たちのためにも、今を生きる私たちのためにも、イエス様は神に向かって、すべての人をひとつにしてください、と何度も何度も祈っています。「壁」で互いを隔て、争い、分断する人たちが、今の世にもあることをすでに予想して、神とイエスがそうであるように、ひとつになりますように、神様が彼らをも深く愛していることを彼らも知ることができるように、神様とイエス様の関係のただ中に、彼らも共にいさせてください、と繰り返し祈るのです。

そして、この約束、「人間は一つになることができる」、「一致と平和と受容」こそが、この暴力の世界に生きる私たちに神様が見る、ずっと見続けるビジョンであると思いました。「傷ついた世界において平和に、柔和に生きる」術を多様な人たちが集まるコミュニティに生きることから私たちは学び得ると、その希望は確実にあるとイエスは、神は言っておられると思うのです。

アジア学院で働きだして間もない頃、学生たちがアジア学院で得る最も大きな学びはいったい何なのか知りたいと強く思った時期がありした。そこで海外で卒業生に会う度にそれを聞いてまわりました。私は、それは短期間や特定の場所でしか役に立たない狭く浅い技術や知識ではないということは分かっいました。ではいったい何が、卒業して何年経っても、厳しい環境の中でも、卒業生たちを突き動かしているのか。もちろん、アジア学院に来る前からすでに持っている強い使命感はあると思います。でも、例えばフィリピンで会った80歳を超えるカトリックのシスターの卒業生に同じ質問をした時に、彼女が私に向かって4時間も話し続けたのは、アジア学院にいた時の、時にくだらない、時にささいな楽しい思い出の数々でした。その時はなぜこのシスターはこんな話を私に語り続けているのだろうと不思議に思っていましたが、後になって私はそれこそが彼女がアジア学院で学んだ最大の学び、つまり「どんな時も、どんな人とも平和に柔和に暮らすことができた」事実、喜びであったと気づきました。これは他の多くのアジア学院の卒業生にも共通して見られたことでした。ジャン・バニエの言葉で言えばそれは神の「贈り物」です。バニエは、ラルシュ共同体において必ずしも状況がよくない時でも、誰もが多少なりとも微笑んでいて、その場所のどこかに、たしかに平和がある、と言いました。そしてこうも言うのです。

しかし、それ(平和)はとてもか弱いものです。それが贈られて来るものであるからです。平和はことごとく、わたしたちの努力によってもたらされるわけではありません。わたしたちは時間をかけながら、共に生きる生活という贈り物そのものに平和があることを見て、感じ取ることができるように学んでいきます。そしてその道筋で、わたしたちはいつの間にか変えられていくのです。

もう一人、民族闘争が絶えない東北インドの小さな村で、自分の村も何度か襲撃を受けて、いよいよ3度目に自分の家が焼かれて再び財産を失ったある女性の卒業生(牧師)は、生きる気力も失せてただ呆然とバスに乗っていた時、自分のスマートフォンにアジア学院から来た、たった1行の短いメッセージで生きる気力を再び取り戻したと言っていたことがありました。それは強烈な激励のメッセージでも長い説教じみた言葉でもなく、たった一言、“How are you? ” だったと言うのです。でもこの一言が彼女にとっては最強のメッセージになりました。それはなぜでしょうか?私はそこにも、先ほどのフィリピンのシスターと同じ理由を感じました。おそらくアジア学院で平和に暮らした事実、世界中から集まった多種多様な人間が争いもなく、おいしい食事を食べて喜び、歌い祝い、共に学んだという事実、神様からのかけがえのない贈り物を自分も確かに得たという事実が “How are you? ” という一言のメッセージを見た時によみがえり、一筋の希望の光と映ったのではないかと思うのです。

ですから、私はアジア学院においては、明文化された「農村指導者研修」を文字通りきっちりと実施するということ以上に、皆が平和で柔和に過ごし、喜び祝って共に生きるコミュニティを築くことこそが何よりもまず大事で、それが神様の賜物であることに何よりも感謝しなければならないのだと思います。このことこそが、「暴力の世界」に生きる私たちに神様が見るビジョンなのではないかと思うのです。

【注】実はこの説教をさせていただいた後で、「ラルシュ共同体」の創設者ジャン・バニエが、フランスで女性6人を虐待しいたとの調査結果が報じられていたことを知りました。キリスト新聞を読み、私自身大変衝撃を受け、失望し、この説教の本誌への掲載が適切であるかどうか悩みました。しかし「国際ラルシュ」の現指導者ステファン・ポスナーとステイシー・ケイトカーニーが「ラルシュ共同体」連合に宛てた書簡 というものを何度も読み、現指導者たちが深い反省のうえに立って調査結果を公表し、被害者たちに対し許しを請い、目の前にあるかつてない困難を乗り越えようとする強い覚悟をも同時に感じました。そしてそこから私は「ラルシュ共同体」そのものを否定する気持ちには到底なれず、むしろこれからの「ラルシュ共同体」の歩みに神様が共におられることをより強く祈っていきたいという思いを持ちました。したがってこの原稿は変更することなく掲載させていただくことにいたしました。皆様のご理解を求めてまいりたいと思います。(アジア学院校長 日本基督教団 西那須野教会員)