随想

尾崎風伍さんを想う 川田 殖

尾崎風伍先生と呼ぶべきであろうが、多年兄けい事じ してきた敬愛の思いをこめてのさん付けで記すことを許されたい。

尾崎さんと私とのはじめての出会いは1962年、箱根で開かれた共助会夏期信仰修養会においてであった。前年京都で共助会に入れていただいたばかりの私は、有名ではあるが見知らぬ大先輩の多い会に、恐る恐る出席した。「信徒責任の血肉化」という厳(いかめ)しい主題であったが、和気藹藹の雰囲気にほっとした。内田文二さんや松木 信さんがたが暖かく迎えてくださり嬉しかった。中でも「私も京都にいたのですよ」と声をかけてくださり、問いに答えて何くれとなく説明してくださったのが尾崎さんで私の心は一気にリラックスした。「来てよかった」と思った。聞けば早稲田出の内田さんや松木さんとも並ぶ共助会若手のホープで、ことに食事や休憩の折々に、内田さんと交わす軽妙洒脱(しゃだつ)なやりとりは、掛合い漫才を思わせて、厳粛な会合にえも言われぬゆとりとうるおい、つまりユーモアを漂わせていた。先輩がたの信頼もきわめて篤く、共助会にとって大切な人だと直感した。

それもそのはず、尾崎さんは篤信のご家庭(父上は旧制静岡高校、のちの静岡大学のドイツ語教授、母上は千歳船橋の教会員で、この修養会にも出席されていた)に生れ、若き日々を過し、海軍兵学校に入るも同年終戦、のち京大で地球物理・気象学を学ばれ、専門を生かして日本航空に入られた。この間の精神的葛藤は察するに余りある。京都では西田町教会に出席され、ここで岡本マリ子さんとも出会われのちにご結婚。松村克己先生とのご縁からか、京都共助会にもご出席。上京後、中渋谷教会に出席されてからはやがて長老、佐古純一郎先生に代って『共助』誌の編集委員長として活躍されていた。このような尾崎さんは、洗練されたクリスチャン・ジェントルマンとして、ぽっと出の田舎者の私には眩しいばかりの存在であった。

しかし尾崎さんは単にノーブルなキリスト者実業人―それはそれで大切なことであるが―ではなかった。伝道心すこぶる旺盛で、すでに1956年『共助』(63号)には「職場における伝道について」の一文があり、1965年正月、葉山のレーシー館で開かれた「若き世代の集い」にも出席され、そこで公表された佐久学舎聖書研究会の構想に心から賛同され、内田文二さんとともに、東京側の中心的協力者となり、やがて山本茂男・清水二郎両先輩を加えて、岡野昌雄兄の執筆になる佐久学舎建設趣意書の実現に力を注いでくださった。あわせて大学大揺れの時代のICUに赴任した私たちを、内田ご夫妻とともに、ご夫妻で訪ねられ、交わりを開き、祈りを共にしてくださった(私たちにとってはあたかも京都時代の林律・岡田長保両家の交わりのごとくであった)。その精神的共同は今まで続いている。共通の夢は早稲田・東大・埼玉の同志がたとも協力して若き共助の共同体を育てることであったが、その願いも今まで続いている。

前掲の職場伝道についての尾崎さんの一文は、日本航空でのキリストの証人としての生活につながっていると思うが、尾崎さんはやがて専門の職種をこえて日航乗務員の人間としての一般教育の担当者となられたことにも表われている。のみならずこの志と経験は、すでに浅野恭三先輩の労になる実業グループ「丸の内集会」においても大きな力となったことは私がここにあらためていうまでもない。

しかもこのような中で、ベトナムから令君、亜紀さんの二人を養子として迎え、りっぱに育てられたことは、この一事だけでも尾崎さんの着眼点の広さ深さを示すだろう。お二人が尾崎ご夫妻の心に応えてけなげに生きておられることも感服にたえない。

尾崎さんの伝道精神は海老名の開拓伝道において新しい段階に入る。1965年以来15年に及ぶその働きは『中渋谷教会八十年史』にご夫妻の筆で記されているが、それを読む時、地域に根ざした伝道のうちに人の思いを超えるみ旨の働きをまざまざと知らされる。ご夫妻の海老名移住、そこに参集する地域の有志、中渋谷教会の絶えざる祈りと協力、これらが渾然一体となって隘路を打ち開き、難局を乗り切って行く。この中で日常の諸事を適切に処理しながら、伝道の進展のため志を立てて東京神学大学に学ばれたマリ子さんの姿にも感銘を禁じえない。こんにちの海老名教会に脈々と残る生きた伝道精神がこのような中で育てられたことにあらためてみ旨の深さを思うとともに、お二人の無私の姿に学ばされる。


このようなお二人に神は新しい道をさらに備え、いまひとつの開拓伝道に用いられた。久我山教会の設立である。同教会は1990年の創立であるが、その数年前から、尾崎さんはさらなる伝道のため、神学研修(いわゆるCコース)を、マリ子さんは上述の学業を続けておられた。1986年伝道師となり、日航退職。丁度その頃、佐久学舎で親しくなった藤 孝さんから、ご自分も参加している家庭集会によい相談役をと求められ、紹介したのが久我山教会の始まりである。その後の歩みは同教会発行の『十年史』に譲るとして、ここでも起こった数々の、人の思いをはるかに超えるできごとを思う時、尾崎夫妻を中心とした信仰の同志、祈りの群れに与えられる、上よりの炳乎たる導きを仰がざるをえない。それは前述海老名教会の歩みとともに、まさにかの使徒言行録のこんにち的展開である。尾崎さんご夫妻の祈りは、これらの教会退職後もたえることなくその群れの一人びとりに向けられて止むことがなかった。次男、勝の病床受洗、死に至るまでのご配慮もその一例である。同様の例はほかに数限りなくあるだろう。

1991年、私は柄にもなく成瀬 治共助会委員長の役を引き継ぐはめになった。誰が見てもそれは成瀬さんと似た道を多年歩まれた尾崎さんにふさわしい役柄であった。断り切れずに不得意な仕事を継いだ私は多くの失策をおかし、同志に多大の迷惑をかけたが、その私を絶えず支え、時には重荷を代って担ってくださったのは尾崎さんであった。困った時の友の有難さを身に沁みて感じた。私の後を尾崎さんが継いでくださったが、私の欠を補い、誤りを正し、持ち前の信仰と経験を生かし、共助会のあるべき方向へと歩を進めてくださった。痛悔とともに感謝はつきない。八年後、委員長を若き副委員長飯島 信さんに託し、ご自分は地味で労多い『共助』誌の編集責任を担ってくださった。おのれを没し他を立てる尾崎さんのあり方の一例である。

この頃企画された『基督教共助会九十年―その歩みに思う―』の第二章「十五年戦争のさ中に」は、共助会の歴史の負の面をも含む苦渋の歩みの記述であるが、尾崎さんの担当である。改めて読み返す時、その苦しみをわがことと捉えつつ、しかもいささかも筆を曲げない真実な記述にあらためて感服させられる。尾崎さんの謙虚な無私の人柄が、罪にも恵みにも、神を仰ぎつつ生きる姿の一端に触れる思いである。笑みを絶やさず、万事に悠然と向き合う尾崎さんの心の根底に何があったかを深く考えさせられる。そしてこれこそ「キリストのほか全く自由独立」と「主にある友情」との根底にあるべきもの、十字架と復活の贖罪の主に生死を託すあり方ではないか。

「委員長の任が終ったら、全国行脚して友を訪ねたい」と言っておられた尾崎さんは佐久には毎年来てくださった。しかしやがてそれも止み、亜紀さんの手厚い孝養を受けられるようになった。御最期近き頃、石川さんの世話で再度訪問、摩さすった脛すねの細さに思わず涙がこみ上げたが、変らぬ笑みと共に祈ったむすびの「アーメン」の力強さには、父なる神とキリストの守りの確かさを確信した。讃美歌「主を仰ぎ見れば」(94年版355番・21―579番)を心の中で唱えて別れた。福音の証人として地を照らしていた星はいまひとつ天に移されたが、主の許で相会える日を信じつつ、その時を待ち望みたい。残されたマリ子夫人、令君、亜紀さんの上に平安を祈りつつ筆を擱く。

(二〇二〇・六)(日本基督教団 岩村田教会員・哲学者)