随想

尾崎さんと井草教会  久米あつみ

1987年という年は、井草教会にとって、また久我山教会の前身であった元阿佐谷東教会のグループにとって大いなる転換と試練の年であった。信仰上の理由から母教会を離れたこのグループ(もう一つ同様の理由で母教会を離れたグループがあったがこれは現在中村町教会の要となっている)に尾崎風伍伝道師がマリ子夫人とともに指導者として与えられたが、さてどこかに居留の地を求めようとしても、いったん教団の教会に所属し、そこからの移動ないし子教会となるのでなければ教団は認めないという。

一月、東神大の教職セミナーのおり、たまたま席が井草教会の熊沢牧師と隣り合った尾崎伝道師は「どこか親教会になってくれるところはないかとたのんでみても、皆断られて困っています」と言ったところ、熊沢牧師は即座に「じゃあ、皆で井草にいらっしゃい。教職、信徒みな、引き受けます」といわれた。 「ああ、大陸育ちは違うな。なんて懐が深いんだろう」と尾崎さんは思ったという、ただしこの会話はすべて、二年もたってから、つまりすべてが進行してから聞いたことである。

熊沢牧師は早速この問題を井草教会に持ち帰り、まず長老会での検討を開始した。そしてこの夏から秋にかけて相互に主日礼拝出席を交換したりした。こうして長老会としては慎重に事態を運びたいと行動したのであるが、かえって会員には不審がられ、事態がはっきりしないとの不満感が広がっていた。さらに熊沢牧師はかねてから「子を産む教会になりたい」と発言されており、阿佐ヶ谷の人たちがひと時寄留してもそれは井草教会の業として子教会を産むためである、との願いがあったことが明らかになってくると、一時は猛烈な反発の雰囲気が醸し出された。こうして井草教会員の中での討論が激しくなってくると、いつもその場に出席されていた尾崎伝道師にとっては、つらい時間をたびたび過ごさなければならなかった。ある時、討論の調子がとげとげしくなって、尾崎さんもいたたまれない思いをしたのではないかと思うが、一会員たる私が何か一言言って、風向きが少しく平らかになったことがあった。

その会議のあと、尾崎さんはまっすぐわたしのところにやってきて、やや照れながらゆっくり I thank you so much. と言われた。そのことを兄に伝えると「ううん、英語でなきゃ言えなかったんだろうな」と言った。

その後の経過は、1988年3月6日の臨時教会総会において尾崎風伍、マリ子伝道師招聘がきまり、5月22日ペンテコステ礼拝において阿佐ヶ谷東教会より14名の人たちの転入会式が行われた。そして尾崎夫妻を中心に開拓伝道委員会を設置したが、この委員会では開拓伝道の「場所探し」を毎週行い、早くも6月には久我山に新しい伝道の場所を見出したのである.それは当初熊沢牧師が考えていたように井草教会の業として伝道所を開設するのではなく、井草教会はあくまでも「関係教会」としてとどまることで現在まで至っている。

ただし付け加えておかねばならぬことは、いったん受け入れてのち井草と久我山の関係は非常になめらかで、1989年3月19日の「久我山伝道所開設に伴う送別会」では、送るもの、送られるものも抱き合って別れを惜しみあい、涙を流して再会を期したのである。

久我山と井草教会関係のことばかり書いてしまったが晩年の尾崎さんが「もっと勉強したいな。特にルターの事を学びなおしたい」と言っていたことを思い出す。学問に関してはいい意味で素人感覚を失わない、それだけにこれからも勉強を続けられるといいな、と思っていたのだが。

(日本基督教団 井草教会員)