佐伯邦男兄を偲んで 和田健彦

佐伯兄は私より一回り以上先輩ですが、読書会を中心に親しくしていただきました。ご自分の信仰生活の原点について、2年にも満たなかった北白川教会での生活についてよく語られていました。「昭和22年の晩秋、あるアルバイトの関係で奥田成孝先生に面会をお願いしたのが北白川教会を訪れた理由であった。先生との一時間余りの会談がきっかけとなり、その後しばしば教会に出入りするようになった。」(北白川教会五十年史)奥田先生との出会いと、礼拝に集中し、シンプルな教会の運営、各自信仰生活を真剣に生きることを求められた教会生活は、若い学生の心に深く刻まれたのだと思います。

佐伯兄が東京町田市在住の頃、ご夫妻で鶴川北教会(牧野信次牧師)に出席されていたことがありました。奥様の澄子姉はやさしいお方とお見受けしていましたが1984年に病で召され、そうした悲しみの後1993年に、佐伯兄は東洋ガラスの社長を退任されて、企業人としての激務から解放されます。お会いする機会が多くなったその頃、一人で読むにはしんどいような本を共助の友と読む願いをおもちでした。

町田から世田谷に転居された佐伯兄は、文学に関心の深い、共助会の表 弘弥兄、永野昌三兄らの強い希望もあってご自宅を開放され、読書会を隔月に5人位のメンバーで20年近く続けられました。この間、ダンテの神曲やミルトンの失楽園などは、私にはとても難解でしたが、中世キリスト教やルネッサンス文学、宗教改革等の一端に触れられたことはまたとない感謝でした。佐伯兄は毎回、読書後の夕食時には美味しい特製のカレーライスをふるまって下さいました。しかしある時から病を抱えられて、日々大変な中、そのようなそぶり一つ見せず導いて下さいました。

一方で神様は障がい者に寄り添われることを用意され、共助会と関係の深い社会福祉法人泉会と、学校法人日本聾話学校の理事長の重責を担われました。私は泉会について認識不足でしたが、佐伯兄は共助誌に「泉会と共助会」と題してその成立等について書かれています(共助誌643号)。

泉会の誕生には羽山和江というキリスト者が1953年に一部の傷痍軍人たちの困窮している実態を見かけて足をとどめ、浅野順一牧師がそれを支え、幾多の困難と闘いながら、1957年に社会福祉法人となりました。身障者の授産施設「泉の家」として運営がはじめられ、まもなく施設の利用者は、傷痍軍人に代わって今は一般の身体障がい者が大半を占めるようになっていると解説されています。また日本聾話学校はキリスト教主義による日本で唯一の私立の聾学校です。創立者は、A・K・ライシャワー夫妻で、1920年に口話法によって始められました。今は補聴器や人工内耳により、乳幼児から中学生まで教育しており、工学博士の佐伯兄は学校の補聴器関係にも強い関心をもたれていました。

昨年暮れ頃、旭川の佐伯兄にお電話したのが最後でした。94年の生涯を閉じられた今、「共助会という小さな群れは、社会における様々な問題を含め、信仰による自由な対話を積み重ねることの存在である」(560号)と対話の重要性を今も語っておられるように思います。(日本基督教団鶴川北教会員)