『闇の勢力に抗して』を読む〜川田 殖
本書の著者とその内容については青山章行氏が的確に記してくださっているので、私はこの書から教えられたこと、問われていることを二、三書きつけて心に刻みたい。
第一は「この(今の)時代」(ルカ十二・五六)を知り、見抜く著者の心の広さと深さである。
それは本書の随所(ことに第一部)に遺憾なく表われていて、読む者を震撼させる。そのいちいちの記事に接して私は、今の現実とその意味をあまりにも知らなさすぎることを痛感させられた。著者には旧約の預言者の目と新約のイエスの心とが生きている。生きた信仰によるものの見方、応答の仕方が示されている。たとえば第一部の「咸錫憲の信仰と思想」ひとつを読むだけでもこのことは明らかだろう。いわんや他の諸篇においておやである。
第二は、すでに第一にも含まれていることであるが、著者の心の広さと深さを生み出す生きた信仰である。それは第三部の冒頭の三篇「日本的自然主義に抗して」「神の子イエス」ことに「私の信仰―贖罪信仰をめぐって―」にあざやかである。ここで展開される著者の「生きた信仰」―聖書の真理を歴史的・人格的に受けとり、これに応えて歩む生き方・あり方―は、自己の信仰の絶対化や教会の信仰告白の教義化といった、いわば偶像化・原理主義化の危険から私(たち)を脱出させる天来の力のありかを指示している。この上に立ってこそ、こんにちにおける伝道と対話の道は拓かれるだろう。
以上の両面を結ぶものが著者の真摯熱烈な人格である。ただしそれは単なる人間のりっぱさの具現としての真面目さと情熱ではない。これらをいったん神のはかり知られぬ義と愛の真実によって打ち砕かれ、その否定的媒介(否定を通して生かされること)によって新しく生まれた真剣さと熱心である。それゆえ著者の時代批判にはあたかも預言者のような神のまことが籠められ、著者の信仰把握には単なる人間レベルを超えた高所よりの自己批判が含まれている。著者の立論が読者をして震撼させるとともに、自己省察をも籠めた深い納得、さらには悔い改めを促し、神の眞実に向き合わせるのはそのためである。私が教えられ問われていることの第三、最大のことはこの神にある真摯熱烈な著者の人格である。
想うに聖書の人物は、ことごとくといっていいほど、生涯を賭け、生活を以て、その信仰と思想を証した。それは当然のことではなくて、聖書の真理そのものが、我と汝(ら)の関係の中で名を叫んで呼び掛け給う神に、運命を賭けて答え従う人格的関係の中で知らされ伝えられる真理だからだと思う。アブラハム、モーセ、世々の預言者、誰よりもイエス、又、世々の弟子たち……。「人を恐れず、神を仰ぎ、友を信じ、決死の一路を辿り申すべく候」との言葉さながらの生涯を送った先師の信仰につながる私たちは、十字架の決意を胸に抱きつつ、心のとどく対話で協力の極みを尽さねばなるまい(不戦の誓いを貫徹する心には、この覚悟が必要であろう)。私(たち)は、著者とは働き場を異にしても、闇の力の跳梁するこの時代に、著者の呼びかけに答えて、おのがじし、そのわざの一翼に加わりたく思う。「万軍の主の熱心、これをなすべし」(イザヤ九・七) (二〇一六・四)