「共に生きる」ことを惜しまない 植松 真琴

この度は共助会夏期修養会【後半】に参加させて頂きありがとうございました。たくさんの学びを頂き、皆様のお話を聞かせて頂けて、とても大切な時間を頂いたと思っております。

修養会では自分にとって身近な内容であるお話をお聞きしたと思います。自分が今までに感じたことや誰かから伝えられたことのある内容がそこにありました。特に荒川さんと阿部さんのお話は共感と自分が将来この問題に向かうのかもしれないという感覚を感じながら触れさせて頂きました。お二人のお話は詳細こそ違いますが、どちらも「女性」という存在のお話であったと思います。

荒川さんのお話は共助会員でおられたお三方の女性のお話でした。「変化の多い」人生の中で、様々な困難を抱えつつも『信仰』ということに向き合っておられた先達の存在を知る事は私にとって非常に大事なことだと感じました。もちろん、彼女たちが実際に生きていた時代よりも現代は相当に生きやすくなっていると思います。ですが、今でも彼女たちが抱えていた困りと似たような感覚は今も残っていて、依然として生きにくさを抱えている人はいると感じます。その悩みや困りに対してどうやって自分が関わっていくのか、当事者としてどのようにその現状を打破していくのかということに向き合いたいと考えさせられる内容でした。

阿部さんのお話はお子さんが生まれたこと、それに伴った人生の変化に関するお話でした。お話の中で「社会との断絶」が非常に辛いものとして感じたことが触れられていました。「子供のことは話しても、自分自身のことを話す機会は一切ありません。名前で呼ばれることもなく、自分の職業ですら一度も口にしたことはありませんでした」という言葉は痛いものであると同時にどこか納得出来てしまった自分もいました。私たちは一人の人間であるにも関わらず、「女性」という人生を生きている事で「誰かの『母』」としてのあり方を人生の中で「一人の人間」であることよりも重視されてしまうのかもしれない、と感じました。

お二人のお話から大きく感じたのは「共に生きる」ということです。これは「共に助ける」という名前のある共助会にも通じる事なのではないかと感じています。具体的な異文化や何か大きな問題ではなくとも、信仰のあるなしや性別、国の違いを越えて、共に生きる事を今の私たちがどのように選び、実践していくのか、今回の修養会を通して考え直してみたいと思いました。今はコロナなどの困難があり、様々な問題を抱えている人もいると思いますが、その中でも、私たちが誰かと共に生きる事、共に生きるために出来る事を惜しまずに生きていけたらと願います。またそんな私たちと共に神様がいてくださって、困難がある中でもたくさんの違いを越えていけますように祈って、この文章を閉めさせて頂きます。 

改めまして、この度は大変素敵な時間をありがとうございました。

(明治学院大学学生)