説教

十字架にわが罪を負ってくださる主イエス・キリスト 飯島 信

【二〇一八年度夏期信仰修養会 開会礼拝】

 

キリスト教共助会創立から百年を迎えるその前年の大切な時に、加藤常昭先生を講師にお迎えして夏期信仰修養会が開催出来ることの幸いを思います。加藤先生には、厳しい暑さが続く中、このようにして私たちのために労を取ってくださることに改めて感謝を申し上げます。

「福音に生きる―贖いの十字架と復活の信仰を礎として」を主題に掲げた今夏の修養会では、私たちは、自らのキリスト教信仰の拠り所を問い直すことを課題としています。唯一絶対にして、歴史を支配される神様が世に送ってくださった主イエス・キリストの贖いの十字架と、死を打ち破る復活の出来事が、今、ここに集う私たち一人ひとりにとって、真実に生きる力となり、希望となっているか、言葉を換えて言えば、真実に福音となっているかを問おうとしているのです。

一九一九年創立のキリスト教共助会の百年の歩みを顧みる時、その交わりは二つの柱によって命が与えれました。「キリストの他自由独立」と「主に在る友情」です。

「キリストの他自由独立」とは、イエス様を救い主として信じる信仰、ただそれだけがこの団体の交わりに求められるものであり、教派を超え、思想・信条を超えた自由独立な群れであることを意味します。また「主に在る友情」とは、人と人との間で結ばれる友情ではなく、先立って、個々人がイエス様の十字架の贖いの業に導かれ、イエス様の後を追い、イエス様に促されて私たちの間で結ばれる友情、それが主に在る友情です。

この二つの柱によって刻まれた歴史が間もなく百年を迎えます。

私はここで、前半では共助会の創立者である森明を取り上げ、主題に近づきたいと思います。後半は私と共助会との出会いを語り、主題への応答としたいと思います。

初めに森明です。

一九二四年、彼の死の前年の七月、三六歳の時、植村正久が主宰する「福音新報」に、森は四回にわたって寄稿しました。「涛声に和して」と題する一文です。大病を患い、幾たびも死の淵を行きつ戻りつした森明が、読む者に静かに語りかけているこの文章には、彼の信仰の消息が記されています。

「私は今、識れる、知らざる友に向かって、湘南の地に病後の身を養う閑散な心に浮かぶ折々の想いについて語りたい。講壇に立つことを許されない今の私は、説教じみた話や、聖書講解や、自分の心の貧しい経験や、家庭礼拝の消息や、学問や、交友や、時事や、社会問題や、しかしてしばしば大自然の消息について語りたい。ただその黙示を解くにはあまりに貧しい感受性しか持ってはいないが、多忙に暮らさるる人びとに閑人の閑語を提供することとする。貴重なる紙面を割愛し、あるいはこれを読まるるであろう人びとにすべてが無益となることを恐れるが、一人でも本稿を顧みてくださる方を懐かしく思う。」

一九一四年一二月、第一次世界大戦が始まったその年、森は中渋谷に日本基督教会講話所、今で言えば集会所を開設しました。二六歳の時です。この文章を書いた時は、それから一〇年の歳月が経っています。一九一九年一二月には、森は帝国大学高等学校学生基督教共助会を創立しました。それからも五年の歳月が経っています。

伝道者として立たされてから一〇年の時を経て、福音伝道に生き、確かな実績を積み上げて来た者としては、静かな、そして謙虚な書き出しかと思います。気負いもなく、頼りなげでもなく、この小文に目を通す者があれば誰であれ既知の友であるが如くに懐かしむ筆致です。幼い頃から病弱で在り続け、そのために恐らく友と呼べる人との出会いが少なかった森明は、この小文を読む者を「懐かしく思う」との言葉の中に、人を信じ、友となる人を常に尋ね求めて止まなかった彼の生涯の歩みが偲ばれます。

「若葉の陰を巣立ちした小鳥の親子が楽しげに飛び回っている。梅雨も晴れた。私は今日から湘南の波静かな地方に、神と

友との恩寵のうちに護られて、永い間疲れ病んだ身体を休や すめ息に行くのである。思えば昨秋一〇月、風物閑雅なる京都において帝大学生の集会に講演を試み、日本基督教会の浜寺における大会に出席以後、帰京早々より昨今に至るまで半年にあまる大患に陥り、いくたびか生死の間をさまようがごとき経験をも、また主にさらに近くゆだねつくされた身心に与えらるる平和な、えもいわれざる歓喜の経験をも得た。」

森明が患った大患とは、重態と記録されるほどのものでした。しかし、「いくたびか生死の間をさまようがごとき経験をも、また主にさらに近くゆだねつくされた身心に与えらるる平和な、えもいわれざる歓喜の経験をも得た」と記している森のこの言葉から、私は、パウロが語る御言葉の真実を知らされるように思います。パウロは次のように語っています。

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。5 ―この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(フィリ一21―24)

森にとっての生きることと死ぬこと、それはこのパウロのように、全てを神様に明け渡し、委ねきっての事柄として自覚していました。神様に全てを委ねきった時、心身に訪れる平和と歓喜は、言葉で言い尽くすことの出来ない喜びの経験でした。

さらに、彼は、イエス様の十字架の真実へと迫って行きます。

「服従、またすべて主の十字架に自己の過去の罪を釘づけ、自己の考慮・欲望・工夫に死に果て、しかして信頼の単純なる生活を始めたる時の心の経験こそ、富める青年や彼の老学者ニコデモに向かってイエスが要求せられた聖旨を、いともわずかながら推しまつることができるようである。新生の歓喜、永遠なる生命、安心立命の秘密は、この辺に存するのでもあろう。これを持続し完成に至らせるために、なおも主のあがないの真理を弁え、『汝の罪赦されたり』との救いの確信に伴うて、絶えず潔めらるるために祈り、また死すとも、同じき罪過を犯すまじとの主の聖愛に対する重き責任の心より生ずる努力を、寸時もゆるがせにすることはできぬ。キリスト者は実に戦争の一生を送らねばならない。ただ平和なるは、戦いに勝ち給える主イエスの十字架のみ陰によるときのみである。そこにのみまことの安息と歓喜が感ぜらるる。」

私は、この言葉から、森明の己が罪との壮絶な戦いを想わずにはいられません。それはまさしく、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。……わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ロマ七19、24)とのパウロの言葉と響き合うのです。

しかし、そのような壮絶な罪との戦いに身を置きながら、森は、キリストの十字架の福音に出会い、そのみ陰における「まことの安息と歓喜」を知らされました。その福音の消息を若い魂に伝えたい、そのために森明は己が人生の全てを賭けたのです。

森明の生、それはパウロが語る「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。」(ガラ二20―21)との御言葉で全てが言い尽くされると思います。彼が、瀕死の床にありながら、福音を携えて若き友の待つ京都へ決死の旅に出ようとしたのも、「キリストの愛がわたしたち(森明)を駆り立ててい」た(二コリ五14)からでした。

森には良く知られた一枚の葉書があります。

京都で森を待つ若き友、奥田成孝へ送った葉書です。逝去するわずか五カ月前、病床にあってなお京都の若き学徒たちへの伝道に赴こうと記したものです。

「先日御心をこめた御手紙に接し、折から身体勝れざりし為め、深い感銘を有しながら御返事延引仕り候。御地へは、山本君を以て申し上げ候通りの予定にて、是非参上の決心に之あり候。今や小生も、非常の決心を以て難に当るの啓導を感じ居り候。人を恐れず神を仰ぎ友を信じ、決死の一途を辿り申す可く候。いずれつもる御話しは拝眉の上申し述べ、またうけたまわりたく候。諸友へくれぐれもよろしく。主基督の恩寵、兄等の上に厚からんことを祈り居り候。敬具」

しかし、森が「非常の決心を以て」実現することを願った伝道旅行でしたが、この葉書の後、森の病状が一層悪化し、実現することはありませんでした。

「生も死も聖みて手にゆだぬればこそ聖なる救いの大事業も成し遂げらるるのではないか」と記している森です。神様へのこのような一途な揺るぎない信仰と共に、一方で神様に従い行く自らの信仰の歩みに欠くことの出来なかったものがありました。それは、彼が師と仰ぐ人々の存在であり、友と呼ぶ人々の存在でした。

彼はそのことを次のように記しています。

「十字架にわが罪を負い給いたる主イエスと、恩師の保護と、多くのよき友の堪え難きまでの忍耐に支えられて捨てられず、かくて私は中渋谷に伝道を開始して以来一〇年を過ぎた。『朋友信有り』とはこの場合深い実感を伴う言葉である。まことに人を活かし不肖なる者を立たしむる者は、恩寵の中に、なおも引き立てんとする知己の愛である。」

自分をここまで在らしめたのは、「十字架にわが罪を負い給いたる主イエス」の「恩寵」だけではありません。森はその上に「恩師の保護」と「多くのよき友の堪え難きまでの忍耐」を挙げています。これらもまた、森にとってはなくてはならぬものでした。「まことに人を活かし不肖なる者を立たし」めたのは「知己の愛」であったと言うのです。

私は、「恩師の保護」を語り、「よき友の堪え難きまでの忍耐」を覚えて感謝する森のこの言葉に、深く心を動かされるのです。そして、私の人生の旅路にも確かに与7 ―えられた「恩師」を、また「堪え難きまでの忍耐」をもって私を支えてくれた友を思うのです。

森の「涛声に和して」の結びです。

「残る生涯を謹んで神と人とに捧げ尽すこそ本望である。よしさらば健やかにもあれ病にもあれ、生にも死にも、ただ聖み 名なのあがめられ給わんことをのみ願う」と。

私は、福音に生きるとは、主イエス・キリストの十字架の死と復活を生きることだと思います。己の罪への深き自覚、そして、それ故にこそ主イエス・キリストの十字架を見上げ、その死による贖罪への感謝と、復活への希望に生きることだと思います。

神様を信じて、全てを託すのです。

次に、私にとっての共助会です。

今から四七年前の一九七一年八月、初めて共助会の夏期信仰修養会に参加しました。ICUで共に聖書研究をしていた先輩であり、今司式をしてくださっている安積さんに誘われてのことでした。共助会という名を初めて聞いて、忘れられないことがあります。それは、たまたま友人の下宿にあった『共助』誌を手に取り、巻頭言の言葉に目を留めた時、引き付けられたのです。一九七〇年代前後、学生問題が大学を揺るがし、東大の入試が中止になった時のことです。そこには次のように記されていました。

巻頭言 大学の危機に思う 成瀬 治

「学問研究の聖域たるべき建物が、革命を呼号するヘルメット姿の学生たちによって占拠され、貴重な研究資料が無残に踏みにじられている。そこへ何千もの武装警官が押し寄せ、放水とガス弾をあびせつつ攻めかかる。石つぶてが飛び交う。まるで戦場さながらのおぞましい光景を前にして、私はいったい何を語るべきなのか。

世人は口ぐちに責める。大学教師は何をやっているのだ。やくざにも劣る暴徒をここまでのさばらせ、善良な市民に危害を加えているのは君たちではないかと。非難の声は矢のように私の胸につきささる。しかし、それよりもさらに鋭い矢が、ほかならぬあの学生の側から放たれているのだ。かれらの深い絶望が、燃えさかる怒りが、まともに私を射るのだ。」

東大助教授として、当時の学生問題のただ中に身を置いていた成瀬先生の言葉です。

ICUの学生運動に関わり続けたため、退寮処分と、運動には加わらない宣誓書にサインをして初めて復学を認められるという、二つの処分を受けていた私は、引き込まれるようにその先へと読み進めて行きました。

「『暴徒』と化した学生を責める以前に、かれらをここに到らしめた『大学当局』の一員として、私は自らをきびしく責めねばならない。かれらに対してよりも、社会に対してよりも、ま

ずもって創造主の主なる神のみ前に、である。あらゆる思いあがり、あらゆる無分別にもかかわらず、根本的な一点において学生たちの要求は正しい。すべての個別的な要求の奥から、ひとつの基調旋律がひびいてくる。『大学教師よ、独善を捨てよ』と。」

 驚くべき言葉でした。少なくとも問題のただ中にあっては、大学の違いこそあれ、私にとっては相容れない存在であった大学当局の担い手、当事者である教師の言葉です。

その教師が、何よりも神様の御前に跪ひざまずき、己の罪を認め、懺悔すると言うこの文章を読んだ時、彼のこの言葉は、私をもまた神様の前に引き出すように思いました。

成瀬先生は続けます。

「現代の社会的・政治的状況のもとで、人間が真に人間らしく生きるためには、いったい如何すればよいのか、という根源的な問いを、若き知識人である学生たちは、意識的・無意識的にいだき、その解決を求めて模索し苦悩している。その純粋な求めに対して、しかし大学教師たる私はどれだけの答えを与えうるのだろうか。真に答えようとするなら、『私自身は何のために学問をしているのか』『そもそも何のために私は生きているのか』というぎりぎりの問いを、自らにむかって容赦なくつきつけねばならない。それをなおざりにして、かれらのいわゆる『日常性』にぬくぬくと安住している自らを省みるとき、私はその独善ぶりに今さら愕然とするのである。」

そのように記した後、先生は次のように巻頭言をまとめていました。

「問題はあれこれの悪しき『制度』の改革にあるのではない。研究体制の『近代化』にあるのでもない。まさに『人間』の問題、人間の『心』の問題なのだ。大学人のひとりひとりが真に『召された者』としての責任にめざめ、神のみ前におそれを以て立つのでない限り、大学は頽落の一途をたどるであろう」。

私にとっての共助会、ひと言で言えば、それは、私という人間を、神様の前に引き出し、神様の前に独り立つことを呼びかけてくれる友垣と言えるかも知れません。今、ご紹介した成瀬先生の巻頭言を読み終えた時、信頼する先輩から誘われただけではなく、自分から進んで修養会に行こうとの気持が生まれていました。そこに集う群れへの深い関心が私の中に生れたのです。

一九七一年、休学して一年遅れた大学三年のこの時、私は、母の胎に命が宿されて以来通い続けていた教会を去っていました。学生運動に身を置いていた私の心の中は、牧師の説教への批判と、共に礼拝を守る教会員への批判が渦をまいていました。祈ることも、讃美歌を歌うことも出来なくなった私は、この年の四月、教会を去ったのです。長野県松本美ヶ原で行われた共助会の修養会に参加したのは、まさにその時でした。そして私は、奥田成孝先生と出会ったのです。

奥田先生との出会い、正確には奥田先生という人格を生み出した共助会との出会いと言うべきでしょうか、その出会いによって、私は翌年一月、教会へと戻ります。

何故戻り得たのかです。

奥田先生を通して共助会の群れが私に教えてくださったことがありました。それは、神様の前に独り立つことでした。神様の前に独り立った時、初めて私は、主イエス・キリストが負った十字架とは何かを知りました。その十字架こそ、人を裁く私の傲慢であったのです。

牧師への批判も、また教会員への批判も、自分の傲慢がなせるものであり、それ故に、私のその罪を背負ってキリストは十字架に架けられたことを知った時、神様は、私を教会へと戻ることを赦されたのです。

この夏、私たちは、十字架の福音、その一点に集中して、三日間の備えられた時を共に過ごしたいと思います。

祈りましょう。