われらはイエスと共に 永口裕子

ルカによる福音書7章11〜17節

キリストの平和がわたしたちと共にありますように

わたしはこの程10月の初めに深刻な病の告知を受け、約35年ぶりに死と真向かいに暮らす時間を過ごしています。若い30歳で経験した子宮癌のときは、子宮摘出すなわち手術によって、子どもを出産することのできない身体になるという悲しみがあまりに大きく、このため逆に進行した癌による死の恐怖は薄められていました。

ところがこの度の腎じん盂う 癌の場合、進行の程度は極めて早く重く、主治医から「最後の準備もふくめて、すべての計画を前倒しにすすめるように」とアドバイスされている状態です。にもかかわらず自覚症状らしい自覚症状はなく、厳しい副作用を伴う抗癌剤療法もまだ始まらない状況に先月までありました。医師のアドバイスから、喜連自由教会には長期のお休みをお願いしたものの、死を前にした病とともにいるという実感をもつことができませんでした。2022年5月の赴任から5か月、メンバーの皆さんとも気心の知れた間柄に段々なっていき、教会での働きもさぁこれからという時でした。何故にこの福音宣教の道が閉ざされ、あらゆるものが中途半端なままに取り上げられるのか。宙ぶらりんの状態で放り出された、浮遊する苦しみにあった告知からの1か月でした。

療養しています自宅では、毎週の主日礼拝を大阪福島教会が配信しておられるオンライン礼拝に与っています。その日2022年11月13日の礼拝では、ルカによる福音書7章11節〜17節の御言葉が取り上げられました。わたしはベッドにうずくまりながらオンライン礼拝に与りました。そしてその説教に電撃のように打たれたのでした。きょうの聖書箇所と致しました。

今、司会の森和彦さんにお読みいただいたところですが、短い箇所でもありますし、もう一度読ませていただきます。

ルカによる福音書7章11〜17節

11:それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。12:イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺(かん)が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。13:主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14:そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。15:すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。16:人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。17:イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

ルカによる福音書は時を刻むことを特徴とします。それは伝道旅行が進むにつれて、「イエスの時」が満ちる有り様を描いていきます。ガリラヤ宣教も終盤、6章から9章にかけて12 人の弟子が選ばれ、数々の癒しの業、宣教の業がイエスさまから弟子へと授けられ、一行はエルサレムへと進む、その手前の町ナインでの出来事です。

ナインの町、ここがどこかは現在も特定はできないのですが、ガリラヤの古い町であったと思われます。

12:イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。

やもめ ―夫と死に別れた寡婦 ―は、たった一人の息子を亡くしてしまいました。「町の人が大勢付き添っていた」とは、あるいは母親は悲しみのあまり泣き崩れ葬送の列を歩めなかったのかもしれません。町の人は彼女を支えながら、門のところまで、門を出るところまで葬送は進んでいきました。

この短い描写のなかに、古代のパレスティナの葬儀の様子が描かれています。死者は棺(かん)に収められ、あるいは包まれ、担架に乗せて運ばれます。そして埋葬は町、村の外で行われるのです。ユダヤ教には死者に触れてはならないという厳しい規定があります。民数記5章2節から「イスラエルの人々に命じて、……死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。」このように死者、死体に触れたものは汚れたものとして、共同体から絶たれます。ナインのやもめの一人息子も、町の門の外へ、いま生の共同体から外へ絶たれるところでした。

13:主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。14:そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。

このナインのやもめをめぐる癒し物語は、主イエスの憐れみ、同情が先行し物語の全編を包んでいます。「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」そしてイエスさまは、死者に触れてはならないという禁忌、タブー、律法規定を超えられるのです。「近づいて棺に手を触れられ」た。それは驚愕の光景だったでしょう。棺の担架を担いでいる人々は怖れ、立ち止まったとあります。

わたしたちは物語を読んだり聞いたりするとき、知らぬ間に登場人物の誰彼に自分を重ねて味わうことがよくあります。新旧約聖書の数々の物語において、また特に福音書などでは、ある時はペトロの立場で、また無名の弟子の一人に自分を重ねて物語に引き込まれていきます。最初に紹介しましたように、11月13日の大阪福島教会でのオンライン礼拝において、このナインのやもめの一人息子の癒しの福音に、わたしはベッドにうずくまり頭から布団を被っている有様ながら、いつしかわたしの心はこの死んだ息子と一体となり、死んだ息子に自分を重ね合

わせておりました。群衆でもなく、弟子でもなく、ましてや母でもなく、今死に、棺(ひつぎ)に横たわり、から共同体から切り離されていこうとする一人息子と共にわたしはありました。そして電撃に打たれるように、御言葉がうずくまるわたしをつん裂きました。

14:近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。

わたしは見ました。棺に触れるイエスさまの手から、黄金のような光が発せられ、棺全体を覆って死んだ息子に差し込みます。息子はその黄金の光に包まれるのです。

わたしは感じました。イエスさまの放つ光が、黄泉と生の境界をつん裂き、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」とのイエスさまの愛の言葉によって死んだ息子が起き上がって話すのを。そこには、日本の消費文化のなかで強調される生に抑圧された死はないのです。わたしは確信しました。イエスさまはいずこにもおられる。生き生きとした毎日を送るその1日にも、確かに。しかし、打ちひしがれた屈辱に殺されている闇の1日にも。そしてわたしのように、近い将来に限られた命を告げられている、なすべき事から切り離され浮遊した命の者のもとにも。どこにあっても、主はいたもう。イエスさまは「もう泣かなくともよい」と憐れんでくださり、「起きなさい」と立ち上がらせてくださるのです。わたしたちは、泣き止んで立ち上がることができます。なぜならば、そこに、その傍らに主がいたもう。そこが依存症に苦しむ床の上であっても、何年と閉じこもる小さな部屋であっても、治療が苦行としか思えない病気との人生であっても、裏切られ孤独しか友ではないのかと嘆く老いの日々であっても……イエスさまは、あなたの棺に手をかけ、黄金の光のなかで共にいてくださるのです。

15:すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。

ここに再生の物語の完結があります。人々に支えられなければ歩けないほどの絶望と憔悴にあった母のもとへ「イエスは息子を」「お返しになった」。一人息子の癒しにとどまらず、生きる全てを失った母は、再び恵まれた。母もまた、主イエスによって生き返りました。

これに似たやもめが死んだ愛児を預言者によって生き返らせていただく物語は、すでにエリヤ物語、エリシャ物語にあるところです。イエスの時、このナインの癒しの現場に立ちあった者たちは、偉大な預言者エリヤ、エリシャに重ねてイエスさまの奇跡をより豊かに受け取ることとなったでしょう。

16:人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

2022年5月に赴任し、機会あるごとにわたしの信仰歴や信条のようなものをお話ししてきました。生まれつきの障害やがん、難病による重度障害にあっても、いやそれゆえに一層明らかに力強くイエスさまと出会わされたのだと自負する一方で、何故にわたしなのか、わたしのどこに特別な不足があって病むのかという不条理に対する問いが、止むことはなかったのです。

お聞きください。

ヨハネによる福音書 9:1〜3

1:さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2:弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」3:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

この度、ナインのやもめの一人息子が癒される物語を通じ、鮮やかにイエスさまの命の光が棺をすなわち黄泉を突き抜けることを知り、体感して、このヨハネによる福音書の盲人の癒し、なかんずく最後のイエスさまの言葉に対して、わたしなりの解釈の道が開かれました。

3:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

わたしはこれまで正直な感慨として、神の業が現される客体として、重い病気や障害が与えられるのではたまったものではないと考えてきました。あえて言うなら、神の栄光よりも健康な身体をと。しかし、いまイエスさまが境界を超えて与えてくださる愛、死者の棺に触れるその愛は、黄金の光となって死者を、健康・健全という境界から排除される存在に、降り注ぐのです。そこに主体も客体もありません。神の業が、すべてを飲み込みます。死を病を欠けを罪を。それらは共に栄光に輝くのです。神の業は立ちすくんでいる者を追いかけ、傍らにあって立ち上がらせるのです。そのように知らされました。

進行がんの告知から1か月、宙ぶらりんの不安定な毎日にありました。しかし、ナインのやもめの福音を通して、イエスさまが死の領域を超えて手を差し伸べられる方であることを豊かに教えられました。わたしはこの道を進もう、どの曲がり角にも、暗闇にも、たとえ黄泉にも主イエスの御手がある。われらはイエスと共にあるのだから。ご一緒にお祈りしましょう。

〈祈り〉

天の主なる神さま、感謝します。われらさまざまな困難のうちにも、待降節の歩みを進めています。「神はその独り子をお与えになった程に、この世を愛された」との御言葉を謹んでお受けし、絶望ではなく希望のうちに、この平野区・喜連地域に御子の御降誕を知らせ、共に祝う業をなしてください。教会牧師の不在から、再び牧師の病気という試練のうちに教会が置かれています。しかし、主よあなたは困難にあって、わたしたちを信仰によってより固く結び合わせるお方であることを、信じます。教会がこの困難を越え、この地域に豊かにキリストの福音を伝える器となりますよう、支え導いてください。

(2022年12月11日 日本基督教団 喜連自由教会牧師)