共助会の教会への寄与(2002年4月) 小淵 康而
21世紀を迎えて日本のキリスト教界に明るい光を見ることができるでしょうか。共助会は今、どのような働きが期待されているでしょうか。私は、共助会が教会に対して寄与することのできる重大事があると信ずるものです。それは何か。宗教改革以来、発見されたが長いこと忘れられ、投げ捨てられてしまった、いわゆる「信徒万人祭司職」という宝です。プロテスタント教会は、宗教改革の三大原理としてこの宝を合言葉にしてきたはずですが、それは名ばかりで、実質的にはカトリックの司祭よりも、もっと権威主義的な教職としての牧師像をつくり上げてきたのではないでしょうか。
その結果、どうなったか考えてみましょう。牧師が強い召命感を懐くのは可としても、権威主義的な牧師や、教会の雑用係のような牧師や、ただ説教するだけで御言葉に従わない牧師や、信徒との同労者としての深い信頼と連帯をもつことのできない牧師が誕生したのではないでしょうか。かく申す私自身もそのような牧師のひとりであったと思います。
もうひとつの結果は、信徒が無意識のうちに自分たちは牧師より一段低い所にいる信者だと思い、神から召されていること、賜物をゆたかに与えられていること、この世へと派遣されていることの自覚が小さくなり、何よりも自分たちが教会の主体であることを忘れ、お客のようになってしまったことです。これでは21世紀のキリスト教に希望はもてません。
さいわい、共助会は上のような教職と信徒のあり方とは異なり、教職も信徒も、キリストにあって全く平等であり、共助会の交わりでは信徒が指導的役割を担うこともまれではありません。さらに、各自が所属する教会においても、権威主義的な牧師は見ることができず、信徒が牧師と同等の力をもち、責任を負い、仕えている姿を、私は多く見てきました。これは、日本の教会の中にまれに見るすばらしい現実です。信徒と同等の立場に立てない牧師は信徒を信頼できず、いつも監視していないと安心できず、そのような牧師のいる教会の信徒は表面 では牧師を立て、心では牧師を信頼していないのではないでしょうか。 「万人祭司」という真理が21世紀に新しい姿で、教会の中に生きるには、まず教職が謙遜になり、教える前に仕え、指導する前に模範を示すことです。そのとき、神は教会を祝福し、用いてくださるのではないでしょうか。