歴史の記憶を隠蔽することなく (2014年 2 号) 木村一雄

 「預言者はあなたに託宣を与えたが/むなしい、偽りの言葉ばかりであった。あなたを立ち直らせるには/一度、罪をあばくべきなのに/むなしく、迷わすことを/あなたに向かって告げるばかりであった。」 (哀歌二・一四)

  「哀歌」には、エレサレムの包囲と陥落、焦土と化した都、バビロンへ連れ去られた同胞たち、捨てられたように残された人々の失望と嘆き、号泣とが繰り返し認められています。 そして敗戦の記憶(屈辱と怨念を忘れず)を直視します。エルサレム落城前後の惨状は、正に日本の敗戦時を想い出します。 しかし、彼らの違う処はこの屈辱を記憶し、決して忘れないことです。現在のユダヤ教では、BC五八七年とAD七〇年とのエルサレムの二度に亘る崩壊を想起する「敗戦記念日」に断食し、「哀歌」を朗読して、絶望から立ち上がった過去の歴史に想いを馳せます。出エジプトと同じく、民族のアイデンティティの原点があります。民族の屈辱と悲惨な過去を決して忘れまいとするのです。歴史から何を学ぶかという苦しい作業を放棄し、そして隠蔽しようとする日本の歴史観と全く違うのです。

  一九三〇年代から敗戦迄の日本の宣教が「アジアに向かって」いたという時、アジアの関わりの大きな部分は「大日本帝国」の植民地との関わりでした。「熱河宣教」の地は、文字通り「帝国政府」の軍政下、無住禁作地帯とした「無人区」政策の内モンゴルの地。そこで「大日本帝国」の後ろ盾の役割を期待されたのだろうけれども、熱河に赴いた澤崎堅造はその権威と緊張関係の狭間に立ちつつ、西亜文化圏とその精神、すなわち「広義のヘブライズム」の権威をうち立てようとしたことを、時代的な条件に拘束されながらも、戦前版『共助』から窺い知るのです。

    暗黒の時代の中で、平和の福音に生かされ、その福音を携え中国へ往き、「熱河宣教」に関わった先輩たちの信仰の歩みは今と比べ物にならないほど困難を極めたことは想像に難くありません。時代が過ぎて、熱河宣教批判の声も聞かれますが、謙虚に受け止めその歴史の記憶を隠蔽することなく、主の御前に立ち帰って、キリストの福音を告げ知らせる使命を負い、再び主に遣わされていきたい。澤崎が内モンゴルへ、悩み悲しみ淋しき人々の処へ向かう道は、主イエスに従い切り、主に負われて行く道。それが十字架への道であると確信し、自分の生死に問い、キリストの十字架をより深く自覚して行かれました。今この時を生きる私たちも、今一度、熱河宣教に問い、熱河宣教から問われつつ、キリストの十字架の意味を深く見極めながら、キリストに従って歩み続けたいと思います。