十字架の栄光の時 片柳 榮一
【聖書研究 ヨハネによる福音書 第7回】
ヨハネ福音書17章
この福音書の頂点ともいえる17章のいわゆる「大祭司の祈り」の箇所を、今回は取り上げようと思う。他の福音書の「最後の晩餐」の記事に代わるものとして、ヨハネ福音書記者が構想した長大な告別説教の最後の祈りの部分である。この祈りの進み具合、展開を辿るのは、極めて骨の折れる作業である。いくつもの文章が混ぜ合わせられたのでは、と悲鳴をあげたくなるほど錯綜して見える。この福音書記者の深い思索と信仰に基づく地下の水脈で繋がっていることに信頼して進むしかあるまい。弟子への告別の言葉との区別を明確にするかのように、記者は「天を仰いで言われた」(171 原文は「眼を天に挙げて」と身体的により具体的である)とイエスの祈りの姿勢を描き、ここからは語りの向かう相手が、天なる父であることが示される。そしてその最初の言葉は「父よ、時が来ました」(171)である。この福音書は、この「時」について何度かすでに語っていた。カナの婚宴においてすでに「わたしの時はまだきていません」(24)とイエスの口を通して語り、エルサレム入城後の、ギリなったことを否定的に見る人も多かったかも知れません。そのような世間の嘲りの視線の中をヨセフは生涯生き続けたのかもしれません。けれどもそのような視線の中にあって、なおヨセフの心には自由があった。それは「神、共にいます」自由だった。私たちが本当の意味で自分らしく生きるということは、一緒に生きる他の人を同じように自由にすることにつながるのではないでしょうか。私たちが本当の意味で他者と生きていく、あるいは他者と生かされていく生き方への解放の宣言を、今日この聖書の言葉から示されたことをみなさんにお伝えしたいと思うのです。私たちの今の時代は、個よりも公・国体を重視する社会へと流れているように思えます。そのような中にあって、私たちは「神、共にいます」ことによる自由な心を忘れずに、本当の意味で他者と共に生きていく、あるいは他者と生かされていく生き方を生きていきたいと願うのです。そして、それは同時に、私たちが「神、共にいます」まことの自由をこの時代にあって守る戦いでもあります。天使は「神、我らと共にいます= インマヌエル」それこそイエスさまの名だと告げています。すなわちイエスさまの誕生によって私たちに「神、我らと共にいます」自由が与えられた。そのことを覚え、このクリスマス、「神、我らと共にいます」ところの「こころの自由」を生きていきましょう。わちユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(Ⅰコリント123―25)。ここではわたしたちの直接眼にする確信が、次元を超えて高いものにぶち当たり、その背景のもとで全体が逆転させられている。パウロは次のようにも語る。「すると主は『わたしの恵みはあなたに10分である。力は弱さの中で発揮されるのだ』と言われました」(Ⅱコリ129)。ここでも自分の価値の尺度そのものと、それとは正反対のものとが極度の緊張のもとに対比され、我々の価値は破壊され、入れ替えられている。パウロのこの強烈な逆説の経験とその表現に親しんでいるわたしたちは、ヨハネ福音書記者の、死の恥辱の時が、栄光の時である、との逆説的表現に出会い、感嘆し驚愕しつつも、パウロの支え棒を頼りにして、よろめいた足を踏ん張り、解釈を続けようとしがちである。しかしヨハネ福音書の逆説がパウロのそれと同じような仕方で理解されうるのかということに関しては疑問の余地がある。どうもパウロ的逆説をヨハネ福音書に着せると、いささか窮屈な感じを拭い得ない。
ヨハネ福音書における「栄光」と「死」の逆説的関わりをよく示す言葉に「上げる」(űψόω)がある。「『今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられる時、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう』。イエスは御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」(1231―33)。ここでは記者自身が、「上げられる」という言葉は「十字架で死ぬ」ことを意味すると明言している。ニコデモとの対話においても、「上げられる」は十字架の死である。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(313―15)。「人の子も上げられねばならない」とは十字架の上に「上げられねばならない」と同時に、天に上げられねばならないのである。ヨハネ福音書記者にとって、イエスの死は、同時に天に上げられることであり、彼がそこから地に降った、その場所に再び帰ることである。そのように「死」は「天」へ上げられることであり、天への帰還なのである。たとえ人間の目には、イエスの死が、屈辱の十字架上のものであったとしても、「死」そのものが、天の父のみもとにある「栄光」への帰還であるゆえに、死は「栄光の回復」なのである。「死」が「天への回帰」であることが理解されれば、逆説は解消される。逆説は深い洞察と「知」によって取り去りうる、いわば無知のヴェールに過ぎない。ここにヨハネ福音書全体の特徴と問題性を見出し得よう。
1節の「子に栄光を与えて下さい」との願いの根拠を示すかのように2節は続く。「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました」。新共同訳では1節と2節を繋ぐ接続詞καθώϛ(如く)は訳されていないが、補うとすれば「丁度すでにあなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになった如く、そのように、子に(今や)栄光を与えて下さい」となろう。するとこの願われた栄光は、すべての人を支配する権能に対応していよう。そして子が父から与えられた権能の核心は、永遠の命の付与であると言われる。すると願われた「栄光」は、永遠の命の付与(獲得)と深く繋がっていることになる。
そして、永遠の命がいわば定義されるかのように語られる。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(3節)。ここでは「命」が「知」と結びついている。当惑する私たちに、ヨハネ福音書が「光」として表現しているものが(「命は人間を照らす光であった」14―5)、理解の助けとなろう。私たちの暗闇を照らす光なる「知」が考えられているといえよう。私たちは根本的に、暗闇を脱して明るくされ、照らされることを求めている。そしてその明るみにおける平安を求めているのであり、この深く安堵する明るみのうちになければ、他のどのような宝を持とうと、永遠の命に与っているとは言えないのである。
4節では子なるイエスは次のように語る。「わたしは行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました」。すると1節の終りで「子に栄光を与えて下さい」と祈った「栄光」は、イエスが業を通して成し遂げた栄光とは別のもののようである。この別の栄光を説明するかのように、5節で子なるイエスは祈る。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えて下さい。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」。今イエスが祈り求める栄光は、地上で自らが現した栄光ではなく、御前での栄光であり、世界が創られる前に、みもとでもっていた栄光であるという。
イエスが今求める「栄光」をさらに明らかにするために、自らが地上でなした栄光の業を、いわば対比させるかの如く6節で述べる。「世から選び出して私に与えて下さった人々に、わたしは御名を現わしました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました」それは、真の神を人々に告知する業であり、この人々自身、もともと神のものであり、神がイエスに与えたものであるという。「子」の徹底した「父」への依存性、所属性が貫かれている。「わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今彼らは知っています」(7節)。弟子たちが知ったのは、イエスの言葉が単に人間の知恵の言葉ではなく、「神」であるあなたからのもの、永遠的な根拠から出たものであるということである。「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らは(彼ら自身)それを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです」(8節)。イエスが語る言葉は、単に自らの思索の結果の貴重な格言ではなく、究極的な「神」に由来する言葉であるという。強意の代名詞αὐτοί(自身)が示す如く、弟子たちも、彼ら自身が自覚的に(決断して)受け入れ、その結果イエスが神の下から出て来たことを本当に(真実に)知ったという。さらに福音書記者は畳みかけるように「あなたがわたしをお遣わしになったことを信じた」と記す。この信じたことと、「みもとから出て来たことを本当に知った」こととはどのように異なるのか。なぜくどくどと同じようなことを繰り返すのかと、わたしたちはいささかとまどって口ごもりかねない。「わたしがみもとから出て来た」というのは、わたしの由来が神的なもの、永遠的なものであることを示している。弟子達は本当にそのことを知ったという。弟子たちが信じたのは、「神なるあなたがわたしを遣わされた」ということである。前者はこの出て来たものの由来、出所が、永遠的なものであるということを述べている。しかしこのものは勝手に自分の恣意でそこから出て来ただけかもしれない。それに対して後者が語るのは、自分が勝手に出て来たのではなく、根源なる「あなた」の意志に基づいて、遣わされて、ここにいるということであり、このことを弟子たちは、「信じた」のであるという。「知」の次元と「信」という意志によって開かれる次元が異なることを、この箇所に見るのは、読み込みすぎであろうか。
イエスの祈りは続く。「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えて下さった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです」(9節)。その願いの内容は11節に語られる。「わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守って下さい。わたしたちのように、彼らも1つになるためです」。イエスは地上の歩みにおいて弟子たちを御名によって守ってきたとの確信がある。そのような御名による守りを、今自らが弟子の眼の前から去り行く時に、父自身による守りして願っている。この祈りは16章7節と関連していよう。「わたしが去ってゆくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」。確かに、これまで弟子達は地上のイエスの業と言葉に結ばれて、1つでありえた。その中心がなくなろうとしている。しかしイエスの業と言葉は、単に地上の肉に由来をもつものではない。父と1つであることによってその業と言葉は成り立っていた。イエスの父への祈りは、弟子たちが、イエスの業と言葉の根源に眼を向けることができるようにと祈るのである。そのためには自らの立ち去りが必要であり、益であるというかのようである。イエスの地上の歩みには、すでにこの自己否定が含まれていた。そしてこの立ち去りの「時」は、イエスの真の姿、子としての徹底した自己否定を完遂するものなのである。
弟子たちが1つであるようにとのイエスの祈りは、イエスの周りに集った直接の弟子、あるいは同時代の人々だけに関わるものではなかった。確かにこのイエスの祈りにおいては、後の弟子たちも念頭にある。「また彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を1つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(20節)。1つにしてくださいとの祈りが、時を超えた広がりを持って考えられている。イエスが去って行くことが、「栄光」の完成であるということの真の姿が見えてくる。イエスの十字架の死が「栄光」であるのは、イエスが父のみもとに帰還するからであるが、そのことが、信仰者にとって意味するのは、地上でイエスと出会った最初の弟子たちと同じ場が、いまや信じる者に用意されたということである。
弟子たちが1つであるようにとの祈りが見据える射程は、確かに、直接の弟子たちの今、此処をはるかに超えて行く。イエスと地上の生を共にした最初の弟子たちと後代の弟子たちとの、一見明瞭な差が取り除かれ、同じ1つの場所、見ずして信じる信仰の同時性の場所が暗示されていると言えよう。父と子が1つであるように、と言われているが、肉の眼には、父は天地の創造主なる神であり、子はナザレの人間イエスである。父と子が1つであるということも、肉の眼には明ではない(勿論31論というドグマをもちだすべきではない)。イエスのうちに究極の神の顕現を、見、信じることは、地上のイエスに出会った者が直接もちうる特権ではない。地上においては、肉となったロゴスは本七的な隠れのもとにある。最初の弟子たちも、後代の弟子と同じ困難さに面しているのである。この困難さは、地上のイエスが去り行ったことで明瞭になっただけである。
ヨハネ福音書記者は、この父の始原の場への去りゆきを敢えて「栄光」の時と見なし、大胆にも終末の時に重ね合わせている。E・ケーゼマンは「終末論が始源論に変化した」と評しているが(イエスの最後の意志―ヨハネ福音書とグノーシス主義』善野碩之助・大貫隆訳、ヨルダン社、1987年、174頁)。このようなヨハネ福音書記者の思い切った試みにわたしたちは驚かされるが、「言は肉となった」(114)という告知が、2,000年前のパレスティナの地においてだけでなく、今を生きるわたしたち1人1人の生の場にあてはまることを教えられて、深い慰めと励ましを覚えさせられる。
(最終回)