【主の祈り 第五回】我らの日用の糧を 今日も与えたまえ 朴大信

マタイによる福音書6章11節

はじめに

第5回を迎えて、「主の祈り」の学びはようやく、前半の〈神に関する祈り〉から後半の〈私たちのための祈り〉へと入ります。今回はその最初の言葉、「我らの日用の糧を 今日も与えたまえ」を扱います。ところで、前回も紹介したG・エーベリンクは、ここでまた一つ興味深い言葉を残しています。

主の祈りの中間におかれたこの句は、最初の三つの願いが仰ぎ見るように求めている高みから、すなわち、神のみ名、神のみ国、神のみ心といったところから測ることは、とてもできないように思われます。また同じように、このあとに続く三つの願いにおいて開かれて来る深淵の深みから、すなわち、われらの罪、われらの試み、われらの迷いといったところからも、測ることができないように思われます。日用の糧を求める祈り、自然のもの、日常のもの、自明のものへと向けられているこの問いは、前後の願いの間に、ひっそりと挟まれているのです。……ここで問題になっていることは、ほとんど話題にする値打ちもないように思われます。一面で、これは神のことがらです。……ところが他面で、それはわたしたち人間のことがらです。―そして、神に逆らっては、それはつまり簡潔にいえば、わたしたちの神との断絶なのです

(「祈りについて―主の祈りに関する説教」、『現代キリスト教思想叢書11』所収、415頁、白水社、1980年)。 

「神のことがら」としてのパン

「ここで問題になっていることは、ほとんど話題にする値打ちもない」。

大胆な発言です。しかし「我らの日用の糧を 今日も与えたまえ」と唱えるとき、私たちはどれほどこれを〝本気で〟祈ることができているでしょうか。日毎の糧+ を神に求める。でも現実にはほとんど、毎日の食事は自分が働き、稼ぐことで賄っているのだから、特段神に求めなくても既に食を得ている。わざわざこう祈らなくても、一日三度のご飯は自分たちの手で十分満たしている。それが、多くの人々が抱く実感や本音ではないでしょうか。

ならばなぜ、主イエスはこのような祈りを教え、肉体の食べ物という極めて「人間のことがら」について祈らせたのでしょうか。理屈の上では、日々の糧がなかったら飢えてしまい、パンがなければ死んでしまうからです。それがなければ生きていかれないほど大切なことだから、祈る。ところが実際には、祈らなくても食べて生きていけると思えてしまう私たち。

しかしまさにそれ故、そこで祈る必然性が生じることを教えられます。私たちが日々の糧を祈り求めるのは、実はこれがどこまでも「神のことがら」だからです。より正確に言い直せば、本来「神のことがら」に由来するはずのパンの問題が、いつでも「人間のことがら」として切り離されてしまいかねないからではないでしょうか。エーベリンク流に言えば、ここでの急所は、「わたしたちの神との断絶」です。この、神との断絶という事態こそ祈ることを必要とし、私たちを祈りへと駆り立てるのです。

この祈りを真剣にしたからと言って、私たちは働くことを直ちにやめることはないでしょう。祈って、パンが食卓の上に備えられるのをただじっと待つわけでもありません。パンのために懸命に働くでしょう。この祈りは、私たちに働かなくても良いことを積極的に促すものではないからです。「働きたくない者は、食べてはならない」とは聖書の教えです(Ⅱテサロニケ3:10)。もちろん、食べるためにだけ働いているのではないにしても、働かなければ食べていかれない厳しさがあるのもまた事実です。そのように、働いては食べ、食べては働く。しかしこの循環する営みを、神の前で祈りながら深く心に留めるとき、神がその全てを祝福してくださっていなければ、どれも受け取ることができなかった恵みであることに気づかされてゆきます。与えられたのはパンだけではない。そのために働けたこと、また健康が守られていることも、それ自体が神の恵みに由来していたことに思い至る。感謝が込み上げてくる。

「人間のことがら」へ極まる「神のことがら」

ところで、主の祈りで通常唱える「日用の糧を今日も」という言葉。この「今日も」という訳語は、いささか誤解を与えかねません。今日も、と言うことで、例えば一昨日、昨日に続く今日もまた、という意味にだけ理解されてしまいがちだからです。この点に注目しながら、主の祈りを書き記した二つの福音書の原文を比較すると、マタイでは「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(6:11)、ルカでは「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」となっています(11:3)。前者は「今日」、つまり今日というこの日、この時、今ここにおける決定的な一回性を意味するのに対して、後者は「毎日」、つまり昨日も、今日も、明日も、その先も…という継続性を意味します。どちらも真実な祈りとして教えられていることに疑いはありません。

しかしこの関連で一つ押さえておきたいことは、多くの学者たちが指摘しているように、マタイによる福音書の方では、主の祈りを記している第6章が、第5~7章にかけての主イエスの「山上の説教」の真ん中に位置しているということです。この文脈に着目するとき、そこから次の有名な教えが浮かび上がって来ます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(6:31~34)。

神の国と神の義。つまり、神の恵みと正義の支配を第一に祈り求めることは、まさに「今日」その日を生きるためのパンの課題に肉迫し、その必要を満たすという主イエスの約束です。別の言い方をすれば、「神のことがら」が、「人間のことがら」に関わってくるということです。さらに言えば、「神のことがら」が実現する極みにこそ、「人間のことがら」も真実に成就する、という宣言の響きです。

この点で、かつて宗教改革者のM・ルターは、主の祈りで「日用の糧」と言うとき、そこで何を思えばよいのかという問いに対して、こう答えています。「それは、肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、……平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人などです」(『小教理問答』)。

糧とはパンに限らない。日々の生活になくてはならない全てを含む。教会の伝統においては、そのように拡大解釈されていきました。そしてどこまでも、これらが恵みとして与えられる源には神がおられ、その一つ一つが神の配慮であり、また全ては神の御用に仕えさせるための賜物と計画であることの大切さが説かれていきました。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」(Ⅰコリント4:7~8)。

祈りの目的と場所

しかし他方で、代々の教会には、パンの問題を切実な課題とするこの主の祈りを、今度は拡大解釈というより偏重解釈というべきでしょうか、要は肉の糧・「人間のことがら」を、精神的な糧・「神のことがら」へと極端に解釈し直す動きも根強くありました。例えばそれは、霊の糧としての「神の言」とか、主イエスご自身の「命のパン」とか、あるいはこれと密接に関わる「聖餐のパン」等を意味するようにもなりました。このように考える信仰的敬虔の動機は、十分に理解できるところです。むしろ、信仰をもってこの言葉を祈ろうとするところで、肉の思いをできるだけ取り除こうとする聖さが、そうした霊的な領域へと目を向けさせるのでしょう。その聖さ自体は決して否定されるべきものではないし、され得ないものです。

しかし、少なくとも二つのことが吟味されなくてはならないでしょう。一つは、「霊の糧」が強調されるとき、そこで「肉の糧・パンの問題」は置き去りにされてよいのかという問題。二つ目は、「聖さ」の根拠はどこにあるのかという問題です。おそらく、両者は密接不可分の関係にあるので、厳密に分かつことはできないでしょう。したがって、これらの背後に共通する問題意識の核を取り出すなら、例えば、実際に今日を生きるためのパンを求め、飢えに瀕している者に対して、パンに代えて主の祈りの敬虔な唱文を勧めることは、場合によっては「石を与える」(マタイ7:9)よりもはるかに愛を欠く行いとなり得る、という警鐘です。

あらためて思うに、「日用の糧」が与えられることを願うこの祈りは、確かに言葉通りたどれば、外形上は中心部に位置してはいても、本来なら主の祈りの端に置かれるのが相応しいとさえ思われるような、最も慎ましく、ささやかな、それ故「ほとんど話題にする値打ちもない」願いに見えてしまうのかもしれません。しかしそれでもなお、この目立たない一句は、偶然真ん中にあるのではなく、やはり主の祈りの核心部をなす重要な位置を持つと言わざるを得ません。冒頭で紹介したエーベリンクの言葉は、さらに次のように続きます。

(主の祈りにおける)個々の願いはみな一つなのです。どの願いもほかの願いと競合いたしません。それぞれがそれぞれと呼びかけ合っているのです。そして、一つ一つのなかに、全体が含まれているのです。日用の糧を求める願いでも同じことです。ただしここでは最も隠された姿でのことなのですが。しかし、ここで隠された姿のなかにさえ祈りの全体が現存しているのである、ということを理解させる使命を帯びて、まさにこの願いは主の祈りの核心部となっているのです(同、417頁)。

主の祈りの一つ一つの願いに貫かれた「全体」とは、いったい何でしょうか。それは、既に用いた言葉で表現すれば、断絶された「神のことがら」と「人間のことがら」が一つになるということです。もっと端的に言えば、神と人間とが一つになるということ。まさにこの真実なる出会いの出来事こそが、いずれの願いでも希求されているということです。既に「我らの父よ」という呼びかけ自体が、父なる神と、その子とされた人間との一致という主題を、根源的な重さで先頭に押し立てています。神の御名、御国、御心と続く前半の〈神に関する祈り〉では、背信に背信を重ねる私たち人間の矛盾が神によって破られ、神との合致へと連れ出される願いが打ち出されています。後半の〈私たちのための祈り〉においても、神が私たちの罪や断絶、迷いや試練の一切を引き受け、これらから我らを解き放って神の恩寵へと包み込んでくださること、そのことを置いて他に何を願うでしょうか。

「日用の糧」を求める祈りもまた、神と人間との一致、和解を目指すことにその基調を置いています。しかもそのほとんどは、神に対する崇高な聖い思いが募るどころか、むしろ全くそこから遠のいてしまっているような、まさに肉なる領域・「人間のことがら」においてです。神から遠ざかった場所、それ故、一見神とは無関係に成り立っているような「自然のもの、日常のもの、自明のもの」で埋め尽くされた場所、ここにこそ、この祈りが真実に祈られるための根拠があります。

〈神の言〉としてのパン

では、この祈りが目指す神と人間との一致、その出会いは、いかなる展開をもたらすのでしょうか。先に置かれた三つの願いが導くような高みの上ではなく、また後に続く三つの願いが示す破局的な深みにおいてでもなく、まさに日常生活の自明性のもとにあってなお、決定的な今日という日のために与えられる糧を、私たちはいかなる意味で問い、求め、その真の実りを受け取るのでしょうか。

人間の肉体性と日常性を総括し、また象徴するものとしてのパンをめぐって、もしこれを神の御前で真実に祈り求めるとき、神が人間の許にあり、人間もまた神の許にある出来事が起こる中にあっては、実はパンも、物体としての特性を超える変化を持ち始めます。なぜなら、〈神の言〉こそがそこで支配し、あらゆる現実はその言を通して変化するからです。しかし全く別物に変わり果てるということではなく、本来あるべき〈神の言〉の許に置かれる、ということに他なりません。口を利かない神なきパンから、口を利く神の恵みのパンへの変化。実に「日用の糧」を求める祈りが究極的に目指しているのは、一にも二にも私たちがパンを手に入れさえすればよい、ということではなく、まずもって私たちがパンのあるべき本質を見通して受け入れること、すなわち、〈神の言〉が共に在るものとしてのパンを受け入れること、ここに尽きるのではないでしょうか。

パンにも〈神の言〉が宿るのなら、そこから何が語られるのでしょうか。それは全く素朴に、私たちがパンに依存しているという厳然たる現実でありましょう。むしろ人間は祈りにあって神と共に在るとき、被造物であるという点で、弱く儚い存在である点で、そして一切れのパンや一杯の水のような、ささやかなものを頼りにしなければ生きていかれない点で、己が何者であるかをよく知っていなければならない。実際はもっと豊かなもので満たされているなら、なおさら、神の御前にあってはこの自分の生存に必要な最小限のものを思い起こし、そこまで落とし込みながら、いわば自らの命に繋がれている糸を手繰り寄せる必要があるのではないでしょうか。

「我らの」日用の糧

パンからの語りかけに耳を立てるとき、自らの依存する姿にさらに目が開かれます。他者への依存、そして神への依存です。自分が口にするパン一つに対しても静かに心を研ぎ澄ませるなら、私たちは無名・有名の他者からいかに無数の贈り物を受けているかに気づかされます。食べることが共同の行為であり、「日用の糧」に伴う様々な悲哀や歓喜を分かち合うことで、そこに共同体の姿が豊かに造り上げられることを知るようになります。

その時にふと気づくのです。主の祈りは、「私のあり余る糧」を願うのではなく、どこまでも「我らの日用の糧」を「我らに今日も与えたまえ」と願うのだと! この願いは、神の前では個人の事柄だけに還元縮小することはできません。そしてこの後に続く「我らの罪をも赦したまえ」との祈りに悔い改めを重ねながら、私たちは「我ら」と呼ぶべき自らの隣人を発見してゆくのです。

こうして日用の糧に宿る〈神の言〉は、私たち自身がその隣人にパンを分け与えるようにと語り直してきます。この要求が独り歩きする時、私たちは戸惑い、自らの無力さや邪念に捕われるでしょう。しかしこれを〈神の言〉として聴く限り、もはや神に依存する他ありません。そして聖なる神に依ることで新たに存する者とされるとき、私たちは愛への自由の基盤を与えられます。この祈りは、神への真の依存によって、私たちの日常の諸々の依存を、取り除くのではなく、自由の圏内へと引き上げてくれるのです。(続)

(日本基督教団 松本東教会牧師)