彼の解放、彼女の救い 安倍 愛樹

【2018年クリスマス礼拝説教】

マタイによる福音書1章18―25節

わたしたちは、毎日の生活の中で、いわゆる社会常識や社会的規範と言われる一定のルールに従って生きています。このような社会常識や社会規範というものは、学校などで学習するたぐいのものではなく、日々の生活の中で自然と学び取っていくものでしょう。そしてそれらの中で基本的なものの多くは、家庭や保育園・幼稚園そして学校の中で、子ども時代に父母や教師の生活や言動、あるいはしつけという行為の中で身につけていきます。こういった社会常識や社会的規範は、私たちが社会生活を営んでいく上で、無くてはならないものです。しかし、一方でその社会的常識や規範と言われるものの中に交じって、いわゆる他者に対する偏見や偏ったジェンダー意識なども同時に私たちの中に刷り込まれていきます。世間の常識と言われるものの中には、多かれ少なかれ、そのような偏った「常識」が含まれていて、それを子ども時代から空気のように吸い込んで成長する中で、私たちの中には偏見や差別の芽が植え込まれていきます。それは本当に解体しがたい、私たちの内に巣くう罪であることを思うのです。

例えば、今もって被差別部落出身の方々に対する根深い嫌悪感を持つ人々がいます。結婚差別も未だに後を絶ちません。そのような人々に、どのように説明したところで、理解を得ることは大変困難です。何故ならそれらの嫌悪感は理屈ではなく子どもの時に植え付けられた生理的なものからきているからです。またジェンダー:社会的・文化的につくられた性別役割の刷り込みと言ったものも、非常に根深く私たちの中に巣くっています。

そのような社会的・文化的刷り込みの中で、今日私が問題としたいのは、「男らしさ」という刷り込みです。今の男性中心社会の中で、「男らしさ」は社会の仕組みにすっかり取り込まれ、社会を動かす装置として機能していると言えます。しかし男性の多くはそのことにあまり自覚的ではありません。かえって男らしい男になろうと自ら努力する姿が目に付くような気がします。そうして、自分で自分の首を絞めるような生き方を「男らしさ・自分らしさ」として受け止めさせられて生きている。そして、その結果、他者、すなわちマイノリティーの人々や、女性たちの権利を踏みにじっているばかりでなく、そのことによってまさに自分自身の権利をないがしろにしてしまっているという男性社会の歪みを形成しているのではないかと思うのです。

家庭を犠牲にしてでも働く男たちの正しさは、どこにあるのでしょうか?

昔は、それが良しとされた。仕事をしなけりゃ、給料ももらえないし、出世しない。出世しなけりゃ家族を養えない、そういう大義名分の元、家族を犠牲にし、結果、自分をも苦しめている。しかし、それは会社にとっては、ただ単に都合のいい仕事人間に過ぎない。

あるいは、家庭も大事にしたい男にとっては、家族と仕事の板挟みで苦しむ。休日は家族と一緒にいたいと思う。今度の休日にはどこかに家族で出かけることになっていたけれども、突然仕事が入る。男ってのは、そんなもんだ。「男は、つらいよ」などとヒロイスティックな幻想を抱きつつ、割り切らないとやっていけない。

特に男らしさは、その対極にある女らしさとは違う意味での抑圧的な意味を持っていると言えるでしょう。いわゆる女性に求められる「女らしさ」は、どこか抑圧的・否定的・行動を抑制するような「らしさ」でありますが、男らしさは社会の中で、むしろ肯定的な意味付けがなされ、どちらかと言えば格好良いものとして機能しています。それ故に、1層「男らしさ」は「女らしさ」に比べて、抜け出しがたい意識の刷り込みになっていると言えるのではないでしょうか。性別役割について特に男性のジェンダーからの解放の必要性を語っている村瀬幸浩さんという方の本で読んだのですが、ある大学で、男らしさ・女らしさについてのアンケートを行った。その結果、ほとんどの女子学生が「女らしさ」ではなく「自分らしさ」が大切なのだ、という答え方をした。それに対し、多くの男子学生が、自分はこういうところが「男らしくない」あるいはこういうところが「男らしい」という答え方をしていたというのです。このアンケート結果では、男性の方が、女性よりも性別における「らしさ」の刷り込みに囚われて生きて

いる、ということがはっきりと現されていると言えるでしょう。

さてここで聖書に入って行きたいと思いますが、今日開きました聖書の箇所、一体このような話と何の関わりがあるのか、と思われる方も多いと思いますが、実は密接に関係していると私には思われるのです。聖書によればヨセフは、婚約者マリアが自分と一緒になる前に妊娠したことを知ります。これはヨセフにとって大きなショック・大事件であったことでしょう。当時は、親というよりむしろ父親が決めた人と結婚することが一般的でしたので、ヨセフとマリアの間には、私たちが考えるような恋愛関係はなかったかもしれません。それでも日本にはお見合いという風習がありますから、お見合いをして、婚約をした後に相手の女性が、自分の子どもではない子どもを妊娠したと知れば、これは大事件です。

そしてこの大事件を前にしたヨセフの最初の対応は、密かに縁を切るというものでした。

つまり、婚約解消です。当時は、婚約が結婚とほぼ同等の法的意味を持っていましたので、これは事実上の離婚の決意であります。婚約中でありながら、聖書の中に「夫ヨセフは」、と記されているところに、そのことが端的に示されていると言えるでしょう。さて、離婚に等しい決心をヨセフがした、その理由を聖書は、夫ヨセフは「正しい人であったので」と記しています。ヨセフが正しい人だったので彼は離婚を決心した。皆さんは、この理由をどう受けとめるでしょうか。今の私たちから考えると少し不自然な理由ではないでしょうか。

ここでいう「正しさ」とは何でしょうか。それは律法のもつ正しさです。律法を守ることが民族のアイデンティティを支えていた、その律法にてらした「正しさ」を指していると言えるでしょう。また、ユダヤ教では、この律法の書をきちんと朗読することをもって、1人前の男として社会に迎え入れられるという宗教的慣習がありました。実際そのための儀式も行われています。そういう意味でも、ヨセフにとって、イスラエルの男たちにとって、律法を唱え、それを守ろうとすることは、1人前の男としての大事な義務であり、その律法を守ることこそ、イスラエルの1人前の人間、すなわち1人前の男であった。因みに当時、女性には、そのように律法を学び、唱える義務はなかったと言われています。その意味でも、まさに律法順守こそ男であることの証明であったと言えるでしょう。

そのイスラエルのおとなの男の「正しさ」にてらしてマリアの婚外妊娠を判断した結果、彼は、彼女との離縁を決心した。マリアの婚外妊娠が、どのような理由によるものか聖書には記されていません。聖書に記されているのは、ただ「聖霊によって身ごもった」という天使の言葉が記されているだけです。後の世に、この出来事は処女降誕として語られていきますが、ここで問題化されるのはそこではないでしょう。問題はその出来事が引き起こした現実です。別の言い方をしましょう。例えそれが聖霊の力によって行われた処女降誕という奇跡だったとしても、一体世間の人々の誰が、当時それを信じたでしょうか。あれは聖霊によって身ごもったのだと、そう言ってマリアを祝福する人など当時いたでしょうか。そうではなく、マリアに世間が向けた視線、それは間違いなく冷たく蔑みに満ちた視線であったと思うのです。

ヨセフの立場も同様です。仮にマリアの婚外妊娠がいわゆる不倫によるものであった場合、言い方をかえれば、真実がどうであろうと公の場で人々がそのように判断したとすれば、石打ちの刑に処せられることが律法には定められていました。一方で、ヨセフは、このようなマリアの状態を「表沙汰にするのを望まず、密かに縁を切ろうとした」と聖書に記されています。言い換えるならば、マリアの婚外妊娠がどのような理由によるとしても、それを公の場(すなわち民間裁判の場)で判断せずに、いわばうやむやにしてしまう、つまり理由の如何を問わず、彼は離縁を決心したということです。そこにはマリアを思うヨセフの判断というものがあったかも知れません。公になれば、下手をすればマリアは石

打ちの刑にあって、殺されるかも知れない。あるいは、石打ちの刑は免れたとしても世間の冷たい視線の中にマリアがさらされる。そのようなことだけは避けたい、そう思ったのかも知れません。しかし、こういったスキャンダルは小さな村で隠し通せるものではありません。実際、世間一般にはイエスさまがヨセフのいわゆる血縁関係にある子どもではないと思われていた、ということは聖書の随所に記されています。

さて、いずれにせよヨセフの離縁という決心は、マリアの側からみるならば、それは非常に恐ろしい決断でした。つまり、未婚の母として生きろということを突きつける決断であり、当時からすれば、それは一生レッテルを貼られて、結婚も出来ない未婚の母として生きなければならない、という宣告でもありました。結婚し、子を産むことが女性の誉れであり、神からの祝福を受けたとされるユダヤの女性において、ヨセフの決断は、マリアの人生を絶望へと突き落とす決断だったわけです。しかも、ヨセフはそれを「密かに」決心しているのであり、マリアと相談して決めたわけではありません。いわばヨセフによる一方的な決定であったと言わねばならないでしょう。

とはいえ、これは先ほどから繰り返しているように、ヨセフという身勝手な男の決断ではなく、当時のイスラエル社会においては、大多数の賛成を得ることのできる、おそらく最も妥当で「正しい」判断であったのでしょう。「夫ヨセフは正しい人であったので」という聖書の1句が、そのことを示しているといえるで

しょう。

しかし、この決断が実はそんなに簡単にされたわけでもないということが、20

節以下に少しかかれています。20節には「このように考えていると」と、書かれていますが、聖書のもとの言葉、ギリシャ語の原語では決心しつつ、しかし迷う様子がかろうじて読みとれます。岩波の聖書訳では「彼がこれらのことを悶々と思いめぐらしていると」と書かれています。世間の正しい規範に従って、密かなる離縁を決心したが、しかし、その自分自身の決定に迷う姿が、この1言に強く感じられます。

ここでヨセフに見られる当時のユダヤ社会における一般的男性像を推測してみたいと思います。

①社会的倫理的規範を守ること、すなわちユダヤ社会における律法を守ることこそが、男として、人間としての正しい生き方である、という考え方に立っていた。

②誰かに相談したというニュアンスが感じられないところから見て、1人でまさに悶々と悩んでいたのでしょう。言い換えれば、この手の話題を相談する相手がいない。そういう意味で孤独でもある。

③密かに離縁すれば、マリアも自分も大きく傷つかなくてすむ、と信じている。しかしそれはあくまで男ヨセフの一方的な思いこみである。

これは現代の男性像と余り変わらない男性像のような気が致します。例えば①律法を守ることこそが、男として、人としての正しい生き方である。という考え方は、男性中心社会を支える装置としての「男らしさ」から抜け出すことができない、男たちの姿と重なります。また②の相談相手がいない孤独な姿は、現代社

会の男性の多くが抱えている問題と共通していると思います。近年、非常に増えている壮年層の自殺の半分近くは、近くに相談相手がいれば避けることが出来ただろうと「いのちの電話」に長く関わってこられた斉藤友紀雄先生がおっしゃっていました。「いのちの電話」にかけてくる男性のほとんどが「孤独」をかかえている。その理由の1つとして、多くの男性が「自分自身を語る」ことを苦手とするから、というのです。それは男は弱音を吐いてはいけない、黙って痛みを背負うのが「男らしい」というジェンダーの刷り込みに縛られているせいだ、ということを先ほどの村瀬さんという方が語っています。いずれにせよ結局ヨセフは、自分を縛っている様々な規範や常識の限界から外に出ることはできない。そして、いったんは決心したが、彼の心は揺らぐ。本当にこれでいいのかと。

その迷いの中、天使が夢に現れて「恐れずに」とヨセフに語りかけます。ヨセフは一体何を「恐れて」いたのでしょうか。決められていた男としての対応=男としてユダヤ人として守るべき社会的倫理的規範を破ることへの恐れでしょうか。ここでの「男らしさ」とは、彼の社会的、民族的アイデンティティーと強く結びついていますから、そういう意味では「自分らしさ」とも密接に結びついていると言えるでしょう。規範を破ることは、自分のアイデンティティーを自分で破壊することになる、そういう恐怖でしょうか。あるいは、それを守ることで、言い換えれば自分を守るためにマリアを切り捨ててしまおうとする、自分自身への恐れなのか。

しかし、それら全ての悩み、そして恐れからの解放を天使は、ここで告げるのです。人を縛る法からは、もう出ていいのだ。あなたが、そうあらねば自分は自分でなくなると思っているような男らしさや、社会的に正しくあるというような規範は、決してあなたを幸せにもしないし、マリアを幸せにもしない。それは神の御心ではない。むしろその規範・すなわち律法を越えて行くところで生きるのだと。それはまさに天使がヨセフに告げた解放の宣言だった、と私は思うのです。

そして、この声を聞いてからのヨセフは実にすっきりとした迷いのない行動をとっています。彼が選んだのは、お互いが本当に生きる道でした。この後の箇所でマリアとヨセフは、エジプトへの逃避行などを余儀なくされて、その道は険しいものでした。けれども、そこにはヨセフの迷いは感じられません。そしてまたインマヌエル・神が共にいて、彼は決して孤独ではなかった。

ヨセフは彼が課せられていた様々ないわゆる「正しい」「模範的生き方」を放棄することで、逆に自由な心でマリアを受けとめることができたのではないでしょうか。人は心の自由を失うとき、心の余裕をなくしてしまいます。創造的な作業ができなくなり、人を許す力や、人を愛する力、相手の痛みを感じる心をなくしてしまう。「男らしさ」は、まさにその装置として、支配者側のイデオロギーを補強し、会社をはじめとする個ではなく公に奉仕するために機能する。そうしていつの間にか、人間らしい、本当の意味での心の自由を奪われていく。しかし、今や、その心の自由を、ヨセフは手にした。そして、ヨセフは、彼が囚われていた、律法という人を生かすことのできない規範、制度のための制度を乗り越えていった。別の言い方をするならばユダヤ的男らしさから彼はこの時解放された。そうして彼自身が人間としての本当の生き方へと解放され、心に自由を取り戻した時、同時にマリアとマリアの子イエスが救われたのです。

こうしてユダヤ教の律法を守る代表者としてのヨセフ、ユダヤ社会における模範的男性像としての正しい人ヨセフに律法のもつ限界を破らせることで、「神、我らと共にいます」ことのまことの自由が私たちに告げられているのではないでしょうか。

世間的に見れば、ヨセフの決断は奇異に映るものだったかも知れません。あるいは男性中心社会の中で、不倫のマリアと一緒になったことを否定的に見る人も多かったかも知れません。そのような世間の嘲りの視線の中をヨセフは生涯生き続けたのかもしれません。けれどもそのような視線の中にあって、なおヨセフの心には自由があった。それは「神、共にいます」自由だった。

私たちが本当の意味で自分らしく生きるということは、一緒に生きる他の人を同じように自由にすることにつながるのではないでしょうか。私たちが本当の意味で他者と生きていく、あるいは他者と生かされていく生き方への解放の宣言を、今日この聖書の言葉から示されたことをみなさんにお伝えしたいと思うのです。私たちの今の時代は、個よりも公・国体を重視する社会へと流れているように思えます。そのような中にあって、私たちは「神、共にいます」ことによる自由な心を忘れずに、本当の意味で他者と共に生きていく、あるいは他者と生かされていく生き方を生きていきたいと願うのです。そして、それは同時に、私たちが「神、共にいます」まことの自由をこの時代にあって守る戦いでもあります。天使は「神、我らと共にいます= インマヌエル」それこそイエスさまの名だと告げています。すなわちイエスさまの誕生によって私たちに「神、我らと共にいます」自由が与えられた。そのことを覚え、このクリスマス、「神、我らと共にいます」ところの「こころの自由」を生きていきましょう。