【発題 1】今、「大人」に問われていること 安積 力也
「基督教共助会」創立100周年記念シンポジウム
第一回「教育の明日」を考える(2019・10・14・月祝)
〈主題〉 何が人を「人格」にするのか― 今、教育の担い手に求められていること―
1 このシンポジウムの趣旨(案内文)
2006年に、換骨奪胎されるようにして改定された『教育基本法』。その第一条、最も重要な「教育の目的」を規定した条項の中に、不思議と改変を免れた大切な文がある。「教育は、人格の完成を目指し」と記された冒頭の部分。この国の教育の見失ってはならない基軸の方向性が明確に示された文言である。
教育の混迷が叫ばれて久しい。矢継ぎ早の教育改革が断行されつづけてきたのに、なぜ、混迷は深まる一方なのか。最も問われるべきことが置き去りにされているからだ。
人は、本来、「人材」ではない。「人格」である。そして人は、教育によって、初めて「人格」に目覚める。他に代えられない独自性と尊厳性をもった「私」になる。そこにこそ、教育という人類独自の営みが持つ、本来の目的と使命がある。
いったい何が人を「人格」にするのか。「私」にするのか。「人間」にするのか。
そう問う自分自身は、「人格」になっているか。家庭で、職場で、「私」を十全に生きているか。心の奥底から突き上げてくる、この疼くような問い。その前で、まずは、教員同士が、共に正直な想いを語り、応答しあうこと。どんなに破れた現実を抱えていようとも、そこからしか、行き詰ってしまったこの国の教育を明日へと導く突破口は、見えてこないだろう。
己に敗れた地平で初めて見ることを許される「希望の世界」がある。共助会百年の歩みを貫いて、人格から人格へと継承されてきたこの希望と信仰の灯。そこに存在の基軸を据えてこの国のキリスト教教育の現場を生きた1人の引退教師と、そこで出会った現役教師3人をシンポジストに立てて、上記の主題の下、語っていただく。午後は、聴いた者一人ひとりが応答する場を設ける。「あの時、心が燃えたではないか」との経験が、ひとりでもいい、参会者の中に与えられますように。 (文責・安積力也)
2 私は他者に「関心」を持っている人間か
どうしても好きになれない生徒、どう努力しても、生理的に拒否してしまう生徒がいる。そんな時、いつも心底から突き上げてくる恐ろしい問いがあった。「お前はこの生徒に関心を持っているのか?」。否、「そもそもお前は、他者に関心を持っている人間なのか?」
高校の教師になって2年目、私は、初めて担任したクラスから殺人犯を出した教師である。付き合っていた一級下の女子生徒との関係が悪くなり、思い余った末、彼は彼女を刺し殺してしまった。誰よりも深く彼を知っていると思いこんでいた私。付き合っていることは、もちろん分かっていた。しかしそれほどまでに苦悩し、思い詰めていることを、私は全く気付けなかった。
事件後、彼は私にこう言った。「先生は立派過ぎて、こんなこと、相談できなかった。」私は、生徒がもっとも助けを必要とするときに助けになれない教師なのだ、と思い知った。
そんな時、長い教員生活のあと牧師になられた共助会の先達が、一夜、私を夕食に誘ってくださった。私は、心の苦悶をぶつけた。「先生、教師を辞めねばならない時があるとすれば、それは、どんな時なのでしょうか。」しばし黙して目を閉じた後、牧師はこう言われた。「生徒を好きでなくなった時でしょう。」
私は、足払いを食らったような衝撃を受けた。教師としての資質や能力や責任の取り方などの次元で漠然と自分の出処進退を考えていた私だったが、この一言で、自分の生き方の根底を突かれたように感じたのだ。教師とは、他者に命がけの関心を持つ人間のことだと自覚して、私は教師になった。だが、私は本当にこの生徒に「関心」を向けてきたのだろうか。
「他者を聴く」姿勢に、似て非なるものが2つある。興味と関心。興味を持って聴く。関心を持って聴く。どこがちがうのか。「興味」は、自分にとって聴きたい、知りたい、見たいと思う部分でしか、相手に関わろうとしない。常にまず自分がある。相手がどんな内容を発信していようとも、「自分の興味」に外れることは、無意識のうちにカットする。相手が、ここを知ってほしいと必死にSOS信号を出していても、それが自分の知りたいことの埒外ならば、見ない、聴かない、知ろうとしない。いや、見えない、聞こえない、分かりようがないのだ。
「関心」は、心を関わらせると書く。心は感受性だ。そのセンサーを、相手に向かって無防備に開こうとする。まず、あるがままの相手自体がある。それに向かって、自分のもっとも感じやすい内奥の心を開いて、相手が何を語り、何を伝えようとしているのかを、聴こうとし、見ようとし、分かろうとする。その結果、自分を支えてきた大切な他者理解の枠組みや価値判断がくつがえされ、それまでの自分が変わらざるを得なくなってもいいという、捨て身の静かな覚悟を持って、他者と向き合う姿勢である。
私は痛烈に思い知った。私は、あの生徒に満々たる「興味」をもって聴こうとしていたけれど、「関心」を持っていなかった。彼への私の「興味」の持ち方は、彼から見たら、なんと「御立派に」見えたことか。
私は、あらゆる意味で教師としての資格がない自らを想って、うなだれるしかなかった。そのとき、牧師は私にこう尋ねられた。「安積さん、今あなたは学校を辞めさせられていますか。致命的な失態を犯した教師として、非難され、排斥されていますか。」私はハッとした。事態は逆だった。マスコミや週刊誌の興味本位の取材の矢面に晒されて、心身ともに疲弊し、かろうじて耐える私を、同僚たちは自分のクラスの出来事のようにサポートしてくれた。いつもは反抗的な生徒が私を見つめるまなざしの、なんと温かく優しく、励ましに満ちていたことか。見える見えざるところで、執り成しの祈りを捧げてくだる方々がいるのだと、私は思った。だから、かろうじて自己崩壊から守られ、なお今の私があるのだと思った。崩れ落ちようとする足下に、資格無き者が今一度「赦されて立つ」地平が広がって見えた。
この出来事を通して新米教師が改めて知ったこと。生徒は「他者」である。どんなに強く働きかけても、最後、自分の行動を決するのは生徒自身。その決断の場所まで、教師は入りこめない。殺すときは、殺してしまう。死ぬときは、自ら死んでしまう。生徒は「操る」対象ではなかった。「祈る」しかない対象だった。「祈りなくして教育はありえない」と仰った共助会の先達の言葉が想い出された。
のちに私は知った。生徒に「関心」を向けるとは、「聴くことに徹すること」だった。この、腰を据えた捨て身の関わりの中で、初めて教師は、分厚い仮面の奥にある生徒自身の真実な姿に出会い、出会うことでそれまで知らなかった「新たな自己」に遭遇し、変貌する。教師が変わることに直結するような生徒との真向かい方が、ここにあった。不思議なことに、この関わりの中でこそ、その生徒に内在する固有のあり方(個としての人格)が引き出されていき、生徒が私の前で生き生きと輝いてくるのだ。気づくと私は、生徒を生かす存在になっていた。教育とは、一人の他者に命がけの「関心」を向けていく仕事のことであった。
3 この国の若者たちの心の底にあるもの
今から4年ほど前、現場を引退して東京に戻ったある日、ひとりの大学生が私を訪ねてきた。初対面だった。シェアハウスに住んでいると言う。なぜと訊くと、彼女はこう答えた。
「私たちみんな、何となく孤独で、何となく不安なんです。」
これは、今この国の若い世代の多くが心の奥に抱えているものを、実に的確に言い当てていると思った。みんな一見楽し気に人と付き合っていても、本当のところは、恐ろしいほど独りぼっちで、得体の知れない不安を鉛のように抱えている。しかもそこには、すべてに「何となく」が付く。直視しがたく、どこまでも漠とした孤独と不安なのだ。更には、それを語る際の主語も、必ず「私たちみんな」。1人称単数の「私」を主語として語る言葉がないのだ。
私は問うた。「なぜ、何となくなの。いったい何が、あなたを孤独にさせているの。不安にさせているの?」応えようとする思いは内から溢れているのに、言葉が出てこない。出てくるのは、大粒の涙ばかり。受験勉強で鍛えたボキャブラリーは頭の中にいくらでもあるはずなのに、自分の内面を語る言葉が、どこにも見つからないのだ。
私は座り直して、改めて向き合った。問いを出しつつ、じっくり待って聴くしかないと思った。そうして分かってきたこと。本当は、実に豊かで鋭い感受性の持ち主だった。時代の流れも社会の行き詰まりも、しっかり見て、感じ取っていた。ただそれを共有し吟味しあう他者関係がなかった。驚くほどひとりぼっちの内面世界を抱えて、思考が空転しているだけだった。
漠とした不安の底に、いかなる思いがあったのか。最後にぎりぎりそれを、こう、言葉にしてくれた。「多分、私は予感しているんです、もうすぐ終わりが来るって。こんな生き方をしていたら、私の大切な人との関係も、いつか破綻する。こんな日本も、世界も、もうすぐ、必ず行き詰って崩壊する……。多分みんな、心の底ではそう感じている。それをじっと隠して、みんな、平気な顔して生きているんだと思います。」
こう語る大学生の顔には、最初にあった「なんとなく不安な」かげりは、もう無かった。「私、これから、今日という日を一日一日、本気で生きていきます。」そう言って帰っていった。
4 教育は、誰のニーズに応えるものなのか
公教育は、いったい誰のニーズに応える教育なのか。いったい私たち現場の教師は、「誰の」ニードに応える教育を為そうとしているのか。
今や学校は、この国の政治的・経済的ニードに応えることが、当然の責務となってしまった。キリスト教学校ですら、一人ひとりの生徒の「人格」の完成よりも、社会のニーズに応える「人材」の育成を標榜して恥じなくなった。
だが、戦後日本の公教育が掲げてきた教育の目標は、一貫して「人格の完成」にあるのだ。2006年に教育基本法の抜本改定が断行されても、なおこの中心目標だけは残され、変わらずに標榜され続けている。(『改訂教育基本法』第一条「教育は、人格の完成を目指し、」)
5 今、大人に問われていること
子どもは、自分が「扱われた」ように、他者を「扱う」ようになる。親の真の愛を受けて育った子は、何を言わなくても、人を愛する子に育つ。条件付きでしか愛されなかった子は、条件付きでしか他者を愛せなくなる。自分の思いを聴いてもらえず、素直に従うことを強いられて育った「よい子」は、他者を思いやれない子に育ってしまう。どんなに稚拙であっても、思いや願いを聴いてもらい、「がんばってやってごらん」と言ってもらって育った子は、何を言わなくても、人を真に思いやる子に育つ。われわれ大人も、そうではないか。
気づくと、かつて自分の親から扱われたように、わが子を扱っている。教師も、校長や上司から扱われているように、生徒を扱うようになる。管理主義的にしか扱われない教師集団は、必然的に、生徒を管理的に扱うようになる。教師個々人の固有の賜物を尊重されて、自由な教育活動を許される教師たちは、必ず、生徒一人一人を大切に扱う教師になる。
いったい何が人を「人格」にするのか。「私」にするのか。
自らの「人格」を真に生きている大人に出会って、子どもは、初めて自分に内在する「人格」に目覚め、固有の「私」を生きはじめる。
「人材」育成教育を受けて有能なロボット的「人材」には成れても、本来の「私」を生きる「人格」になれないまま、深く心を閉じる若い世代の苦悩を想う。その、言葉にならない呻きの前で、われわれ大人は、どう応えるのか。
多分、この国の子どもや若者たちの最大の悲劇は、「嘘をつかずに真向かってくれる大人」「徹して聴いてくれる大人」に出会えないことなのだ。彼らは、本当の意味で「関心」を持って聴いてくれる大人を、今、飢え餓かつえるように求めている。
もう一度言う。人は本来、「人材」ではない。「人格」である。そして人は、子育てと教育によって「人格」に目覚める。尊厳性と独自性をもった「私」になる。そこにこそ、子育てと教育本来の中心使命がある。
問われるのは、私自身が「人格」になっているか、それを、家庭で、職場で、生きているか、である。
天上から、共助会の先達たちの声が響く。「なによりもまず、神の前にひとり立つ個を、生きよ」。(当日の発題で不十分だったところに、加筆訂正を加えました。ご寛恕ください。)(元基督教独立学園高等学校校長)